クレネアの思い出
執事の淹れてくれた紅茶のカップを傾け、研究資料の入った本棚で壁が埋め尽くされた自分の部屋で、今日の朝のことを思い出す。
サテラスには悪いことをしてしまった。
サテラスも大事な弟子の一人だったというのに、娘に構っていたせいであんなに慌ただしく送り出してしまったことは、少し後悔している。
どうか許してほしい。
そして、私は今とてつもない喪失感と無気力に襲われている。魔都のお偉いさんから頼まれてる仕事も、魔法の研究も、残った弟子の指導もする気になれない。
理由はわかっている。
レニがいなくなってしまったからだろう。
子供が親元から離れていくのは当たり前の事だし、自分の娘もいつかは離れていくと理解はしていたが、実際に体験するとなかなかに辛いものだ。
感傷に浸っていると、ふと、レニと出会ったときのことを思い出した。
もうあれから16年か、はやいな…。
そう、レニと出会ったのは帝国と法国の戦争にやむなく参加した直後だった。
ラーグ密林を挟んで、魔都の隣にある帝国と、帝国の北にある隣国である法国。
帝国は大陸最大の規模を誇る国家だったが、あのときは先代皇帝が亡くなったばかりで、継承やらなんやらで揉めていた。
派閥争いで国中が混乱するほど酷かったと記憶している。
法国は〈光の神〉を信仰する宗教国家で、魔族に対して容赦がない。
大陸全体で見ても魔族への風当たりは強いが、ぶっちゃけ他種族に対して風当たりが強いのは、どこの国も同じだ。
ただ、例外はある。
その最たるが宗教。
〈光の神〉を信仰する信者は、私達魔族を敵だと思っている。どうやら教義で、「魔族の存在を認めてはいけない」とあるらしい。
迷惑な話だ。
別に勝手に恨んでいる分にはいいのだが、狂信者の部類になると魔族を襲ってくるから厄介だ。私も何度か襲われたことがある。
話を戻そう。
その当時、法国は混乱中の帝国に侵略戦争を仕掛た。
正確には、継承権を持つ皇族の一人が〈光の神〉の信者で、彼の率いる派閥が法国軍を国内に誘い込んだというのが事実である。実質はクーデターのようなものである。
当時の法国には、聖女と呼ばれる英雄がいて、彼女が率いる法国軍は無類の強さを誇っていた。
帝国軍も精強だが、上がゴタゴタしている状態では満足に勝負も出来なかっただろう。
帝国が法国に負ければ、次の皇帝は法国を招き入れた〈光の神〉の信者である皇族だろう。そして、帝国は法国の支配下に収まる。
そうなれば、魔族が嫌いな法国は次に何をするだろうか?
帝国という強力な尖兵を手に入れた法国のするるとは、もちろん魔族の殲滅だろう。
帝国と法国が次に侵略するのは、間違いなく魔都である。
いくらラーグ密林があるとはいえ、大国2つと聖女を相手に出来るほど、魔族は強くない。そもそも、規模が違いすぎる。戦力差は10倍近いのだから。
故郷を救うには、帝国が法国に負ける前に法国軍をなんとかしないといけない。
私は帝国と法国の形ばかりの戦争に、負けがほぼ確定していた圧倒的劣勢の帝国側に傭兵として参戦。
伏兵として戦場に潜み、隙をみて聖女を奇襲した。
私は得意とする〈召喚魔法〉で叶う限りの魔物を呼び出し、魔物の軍勢を率いて、全力で聖女と彼女を守る精鋭達と戦った。
今まで何度か魔物相手に死にかけたことはあるが、瀬戸際の死闘を人間相手に繰り広げたのは、このときが最初で最後だっただろう。
結果として、私はギリギリで聖女を倒すことができた。聖女を討ち取られ、総崩れを起こした法国軍が撤退したことで、帝国軍は辛勝した。
その後、法国軍を手引きした皇族は反逆罪で処刑され、彼の率いる派閥も解体された。
帝国の新しい皇帝も決まり、帝国と法国の仲が邪険になったこと以外は、ほとんどの人々がいつもの日常に戻っていった。
しかし、私はそうもいかなかった。
今回の戦争では暴れすぎた。
普通は、戦場で敵の兵士を殺しても罪には問われない。
当たり前だ。
もしそれが犯罪になるなら、軍人は皆犯罪者ということになってしまう。
もちろん、戦争に参加した傭兵も同じだ。
だというのに、法国はその暗黙の了解を破って私の首に莫大な懸賞金を掛け、さらには聖女殺しの大罪人だの、魔物を率いる魔王だのと指名手配までした。
聖女を殺したことを、よっぽど恨んでいるらしい。
〈光の神〉の信者にはこれ以上ないくらい嫌われ、賞金稼ぎ達に命を狙われ、大国に目をつけられたとあっては、傭兵家業など続けられない。
帝国は庇ってやると言ってくれたが、代わりに支配下に入るよう言われそうなので、丁重にお断りした。
私は傭兵家業から足を洗い、故郷である魔都に帰って隠居することにした。
幸い、帝国がそれなりに多額の褒賞金をくれたので、生活には困らないだろうと思ったのだ。
そして私は魔都に帰る途中、ラーグ密林の入口で、捨てられた人間の赤子に出会った。
その赤子は放っておけばすぐに死に絶えてしまう程にか弱く、誰かの助けがなければ死んでしまう程に脆弱だった。
気がつけば、私は赤子を介抱していた。
我ながら可笑しい話だ。
今まで孤児や捨て子など数えきれないほど見てきたし、人間なんて3桁は殺している。
もちろん、盗賊などの犯罪者や、戦場での話だ。
流石に堅気を殺して、犯罪者になるようなことはしていない。
つい最近、法国によって犯罪者にされてしまったが。
私は自分自身の行動に疑問を抱きながらも、
赤子を連れて魔都に帰還し、魔都の郊外にあった屋敷を買い取って、そこで赤子と共に隠居生活を送りはじめた。
何故あのとき赤子を拾ったか、今なら分かる。
私は孤独に生きるのに、いい加減疲れていたのだ。
話し合える存在が欲しかった。笑いあえる存在が欲しかった。辛いことを、共に乗り越えてくれる存在が欲しかったのだ。
私は赤子にレニという名前をつけ、養子として自らの娘にした。
この子が、私の孤独を埋めてくれると信じて…。
いつのまにか、カップの紅茶は冷たくなっていた。
思ったよりも長い時間、物思いに耽っていたようだ。
……感傷に浸るのはここまでだ。
レニは立派に成長し、一人前になった。
そして、私のような魔導士になると言って旅に出たのだ。
ならば、娘の目標となった私が、どうして何時までも感傷に浸っていられようか。
レニが私に追い付くその日まで、私は偉大な魔導士でいなくてはならない。
娘は1歩目を踏み出した。
私も立ち止まってはいられない。
私は冷めた紅茶を飲み干し、決意を新たに机に向かう。
とりあえず、今日サボった仕事から片付けるとしよう。