第3話 悪魔の所業
「92………93……きゅ、94……」
「ズズズ……」
「95……96ッ……97」
「ズズズ……」
「98……99…………100ッうぅぅ、カッ!」
「ふぅ……」
ニルに足を抱かれたまま、俺はベッドの上で仰向けに倒れる。
鼓動が高鳴り、呼吸も乱れ、腹や腰が異様に痛む。
そんな俺の傍でテーブルの前に正座で座り込み、人の湯飲みで呑気にお茶を啜って茶菓子を貪るアルヴァ―レとひたすらに液晶テレビを見つめながらその周りをくるくると忙しなく動き回るコルト。
……何だこれ。なんかおかしくね?
「何だ主よ。その程度か?」
湯飲みを手にしながらこちらへ体を向けるアルヴァーレ。
いやいや……大体、その湯飲みとお茶と茶菓子は全部俺の物なんだけど、何勝手に楽しんでいるんだよ。
というよりも、ツッコむべきところはそこじゃない!
「はぁ、はぁ、はぁ。こ、これ……特訓なのか?」
「無論だ。筋力向上は初歩中の初歩だろう?」
「お前が出てくる必要あったか?」
「傍で見ている者がいなければ、主は何かと手を抜きそうだからな」
うっ……それを言われると反論できないな。
自分だけでやっていたら、なんだかんだで限界を決めて長続きしなさそうだし。
「それに……主にとってはこの上ない喜びだと思うのだがな」
「は? 何言って――ッ!?」
ニヤリと卑しい笑みを浮かべてアルヴァーレはクイっと顎でニルを指す。
怪訝に思ってニルに目を向けると、俺の膝裏に腕を通し抱き付くような形で足を押さえているニルの破壊的な胸が俺の膝の上に乗っかっている事に気付いた。
いいや……初めから乗っていたのかもしれないけれど腹筋の苦痛に集中していて気付かなかっただけかもしれない。
服越しとはいえ俺の膝には幸せな感覚が伝わってくる。なんだこれ……なんだこれ!!
「どうしたですか?」
ニルは俺の視線の先に気付いていないようで不思議そうに俺の顔を見つめている。
い、いや……落ち着け。ニルはそういう目で見られるのはあまりよく思わないはずだ。
それにこれは特訓。下心なんて不要だ。
「い、いや……何でもないよ」
そう言って誤魔化すように笑いかけるが気にし出すとそればかりが気になってしまって集中できない。
こいつ……さてはこれを狙ってニルに俺の足を押さえる役を押し付けたんだな。
コルトだったらこうはいかなかっただろうから。
「なあ……もっと良い特訓の方法はないのか? これじゃいつまでこれを続ける気なのか分かったものじゃないぞ」
筋力向上のために筋力トレーニングをするのは分かるが、正直これは普段の生活の中でやることに意味があるのであって、今日この場でやり続けても闇雲に肉体を疲労させるだけだ。
だったら、アルヴァーレの言う通りアルヴァーレ自身が俺の特訓相手になってもらう方がよほど効率的だし、力を貸してくれている本人との対峙であれば力の使い方も見えてくる気がする。
アルヴァーレは俺の提案にしばらく腕を組んで考えていたが、
「仕方あるまい。主がそれを望むのであればすぐにでも始めよう」
意外とあっさり受け入れて指を鳴らした。
俺の部屋に変化していた空間は瞬時に俺達がいた元々の草原へと変化する。
結界が解かれたのかと思ったが、俺とニル、コルト、アルヴァーレ以外には誰一人いないようで、ここはまだアルヴァーレの結界の中らしい。
俺は立ち上がりアルヴァーレと向き合う。しばらく腕を組んだまま俺を見つめていたアルヴァーレはおもむろに鞘に収めた刀を抜き、その刃先を俺へ向けた。
「刀を抜け主よ」
鋭く光る眼光。その先には確かな殺気が漂っている。
全身が総毛立つようなゾワリとした悪寒。
油断すれば例え主である俺でも容易に斬り捨てる事が出来る。そういった殺気を漂わせている。
俺の後ろにいたニルも状況を察したのか、離れているコルトのもとへと駆け出した。
「丁度いい」
アルヴァーレは呟くと、同じ場所に集う二人に向かって目を向ける事なく片手を指し伸ばして指を鳴らす。
その直後、二人の周りの地面から金属の棒が取り囲むように飛び出し、コルトもニルも反応して避ける隙を完全に奪われ、瞬時に牢獄を創り出して閉じ込めた。
「くっ……閉じ込められたか」
「ま、魔法と衝撃を完全遮断する牢獄です。ボクでもこれを打ち破る事は出来ないですよ」
牢獄の鉄格子を掴み、ニルは苦い表情をしながら呟く。
こいつ……何のつもりなんだ!?
「ニル、コルト!」
俺は二人のもとに駆け寄ろうとしたが、瞬時に間合いを詰めてきたアルヴァーレが刀を振り上げるのが見えて、俺は咄嗟にアルヴァーレの攻撃を刀で受け止めた。
「ふむ……良い反応だ」
「……2人に何をするつもりだよ」
「案ずるな。邪魔が入らぬように、閉じ込めただけだ」
アルヴァーレは不敵な笑みを浮かべながらも押し切ろうとじわじわと刀に力を込めていく。俺も負けじと懸命に抵抗するがその圧倒的な力の前に、斬られないように刀で抑え込むくらいが精一杯だった。
少しでも集中が途切れれば一瞬にして斬り捨てられる。
全神経を研ぎ澄ませなければ抑え込むことなど出来ないほどだ。
クソッ……アルヴァーレがあの2人に何かするわけではないのは良い事だけど、これでは防戦一方になるばかりだ。何か……相手に隙が出来れば……。
「どうした? 刀を構えて固まっているだけではただの的にしか見えないぞ」
競り合う俺に顔を近づけ低い声で挑発するようにアルヴァーレは呟いた。
その後、俺を押し飛ばし少しだけ俺から距離を取ると、再び斬ろうと襲いかかってくる。
クソッ……なんども同じ手を食らうかよ。
相手をよく見ろ。競り合いになる前に俺が優勢にならなければ——ッ!?
「なっ!? ——あぐっ!?」
様子を伺っている最中、急激に意識が遠のく感覚がして俺の視界からアルヴァーレが消える。その直後、背中に抉られるような強烈な痛みを感じて我に帰り振り向くと、血濡れた刀を持ったアルヴァーレが立っていた。
背中に感じるしっとりとした感覚と血生臭さ、そして拍動に応じて感じる激痛。間違いない……背中を斬られたんだ。
「ゔゔゔ……ぐゔゔ!!」
い、痛い……凄まじく痛い。
今の一撃で間違いなく、恐怖は植えつけられた。
怖い……戦うのが怖い。斬られるのが怖い。痛みが怖い。
恐怖と痛みで息が上がり、肩を揺らしながら必死で呼吸する。手足は震え、切っ先は安定せず、細かな動きで右へ左へと揺れる。
「悪術戦法、初めの幕……嘲斬。目の前にいる相手の魔力探知を含む全ての知覚を狂わせながら背後に回り込み瞬時に斬りつける技だ。研ぎ澄まされた精神力の持ち主でない限りこの技を防げる者はいない。狼狽える相手をあざ笑うかの如く背後から斬り捨てる。実に悪魔的……悪魔的な技だ」
刀を振り、こびり付いた血を払い飛ばす。
あんな技まで使うのか……知覚を狂わせて斬り付ける技か。確かに、悪魔の名にふさわしい卑怯な技だ。
強気な態度を取っていても斬られる痛みに恐怖を感じている今では何言ったって負け惜しみだな……クソッ、どうすりゃいいんだよ。
「ふん。つまらんな……これが我が主人とは。嘆かわしい事だな」
アルヴァーレは心底呆れたように首を振りながら嘆息する。
恐怖で震える俺を見て目を細め、ふんと軽く吹き出すように鼻で笑った。
「戦いに恐怖する事は素晴らしい事だ。戦いに恐怖せぬ者はいずれその心も闇に染まる。人としての心など持たぬ獣と化すのだ。だが……守ると誓った者の前で情けなく震えている主人は実に人間的で滑稽だ。語らずとも見えているぞ、我が身の保身だけが唯一であるとな」
「う、うるせぇんだよ……」
侮辱されて言い返すも、アルヴァーレの言っている事は的を射ている。情けないと分かってはいる、分かっているつもりだが……様々な恐怖が入り混じって足が竦む。
「興ざめだ……」
しばらく睨み合いが続いた後、アルヴァーレは嘆息しながらそう呟く。次の瞬間、俺は何もしていないはずなのにその場でバランスを崩し前のめりになって倒れてしまった。
断ち斬られるような感覚を足に感じたかと思うと、背中を斬られた時よりももっと強烈な痛みが両足を襲う。
「う……うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!! うぐあぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「セイジさん!!」
「クソッ!! 何なんだ、あいつは!!」
俺は自分の足を見て戦慄した。
そこにあるはずの両脚……膝の上辺りからその下の全てが斬り落とされていた。
あられもない叫び声をあげて地面をのたうち回る。これだけの損壊を受けてもなお意識はハッキリとしている。
もう痛いなんてものじゃない。一思いに殺してくれた方が良いと思えるほどの強烈さだ。
「そのような易い覚悟で振るう武器など底が知れている。我の大悪魔としての名に傷が付くのでな、主人との契約は無効とさせてもらった。武器の封印も解かれ、今や自由の身。我を縛る者はいない」
そう吐き捨てたアルヴァーレは刀を握ったままニルやコルトの下へと歩み寄った。
「小娘もろとも貴様を殺す。分かっていたはずだ。我は大悪魔。悪魔が人に仕えるなどありはしない」
振り向きざまに俺を睨んだアルヴァーレ。
そこには嘘などない、確かな殺意が篭っていた。




