物語における『悪』がどうして魅力的なのかについての私見
小説のジャンルにピカレスク小説というものがあります。それを日本語に訳すと悪漢小説となります。要するに悪党や悪人が主人公の小説ですね。
日本の作品ですと『ルパン三世』が挙げられます。主人公のルパン三世は大泥棒。立派な悪党です。しかし彼の活躍を非難する者はいないでしょう。その理由はギャグシーンがあるからでも敵役がルパン三世以上の悪党だからでもありません。単純にルパン三世が格好良いからだと思います。つまり泥棒という名の『悪事』を働くことが人々の心を打つのです。
他にもピカレスク小説はたくさんあります。それらの主人公は何らかの『悪人』あるいは『悪事』を行ないます。人殺しであったり強盗であったり。また、普通の作品でも主人公ではなく、悪役に人気が集中するケースもあります。悪のカリスマと言ってもいいでしょう。何故人はそのようなことを行なうマイナスなキャラクターに惹きつけられるのでしょう。
それは禁忌を犯したいと人々が心の奥底で願っているのかもしれません。現実世界で行なうことはタブーになっていることを創作の世界で行なっているキャラクターを自己と重ね合わせることで満足しているのかもしれません。
嫌な人間を殺したい。他人の財産を盗みたい。誰でもいいから傷つけたい。そんな暗い情熱を内に秘めているのが人間なのです。その汚い部分を追体験する創作物に人気が殺到するのは当たり前だと個人的に思います。
また勧善懲悪の物語は得てして青臭いものになりがちです。それに加えて単調なストーリーになってしまいます。正義が悪に勝つという図式が成立するがゆえに、物語の結末が固定されてしまうのです。
一方ピカレスク小説は悪と悪との戦いが主になっています。だから主人公が負けることもありますし、その逆もありえます。結末が分からないのです。だから物語に深みが出ますし、作者自身も予想できない結末に仕上げることが可能となります。
しかし敢えて苦言を呈するならば、ピカレスク小説が主流となることは難しいと思います。何故ならば人々は物語に希望を求めているからです。流血と暴力で塗り潰された物語よりも愛と正義で輝いている物語を読者は求めているのです。悪の魅力とは甘美なものです。しかし我々の世界は法律や道徳、倫理といったもので縛られています。よく漫画の真似をして犯罪を犯す人がいますが、彼らは妄想と現実を区別することを放棄した結果となっています。だからこそ、悪の魅力は王道ではなく邪道に属するのです。
決して主流になることのない悪。だからこそ我々は悪に惹かれるのです。世界は優しくないから。救われることが少ないから。だから悪を求めるのです。そしてこの世から悪が消え去ることも無いでしょう。増えては減って、また増えるのが世の習いなのです。
最後にかの大泥棒、石川五右衛門の言葉で締めくくりたいと思います。
石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ
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