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ダンデライオン

作者: 春川メイ

よろしくお願いします。


『花の命は短い』



――いえいえ、そんなことはありません。

花というものは――特に野原に自由気ままに生えている雑草なんかは――けっこうしぶとい。



***


(あー、疲れた……。も、もう動けな……い……)


 全身ボロボロの黒い服を着た男はとうとう力尽き、その場に倒れ伏した。

 周りは野の草花が生い茂る空き地。

 空は雲ひとつない青空。

 ギラギラの太陽がカッカッと笑っている。

 時折吹き抜ける風に揺れる黄色い花をぼんやり見ながら、男は意識を手放した。



***


 こしょ。


(……?)


 こしょこしょ。


(…………ん?)

 

 こしょしょ、こしょ。


(…………っ、は……っ)


「っくしょん!!」

「あ、起きた?」


(……?! な、なんだ……?)

 盛大なくしゃみと共に男が目を覚ますと、目の前には小さな少女がしゃがんで男を見ていた。

 その少女はふわふわの蜂蜜色をした髪を両耳の上でふたつに結んで、大きな目をパッチリと見開き、手には猫じゃらしを握っている。

 男はどうやらこの猫じゃらしで鼻先をくすぐられていたらしい。

「びっくりしたよ。お兄さん、叩いても揺すっても全然起きないんだもん」

 男は突然の覚醒による混乱を収めようと、努めて思考を回転させた。

 

 辺りを見回してみると西の空は茜色に染まっている。

 反対側の空にはひとつふたつと星が輝いて、じきに夜を連れて来るだろう。

 風も大分涼しくなって来て、少し肌寒く感じられる。

 倒れる前は昼だったはずだから、随分と長いこと意識を失っていたらしい。

「あー……、とりあえず、ここはどこだ。そしてアンタは?」

「ここはわたしの近所の空き地。わたしは行き倒れのお兄さんを助けてあげた親切な女の子」

 少女はにっこり笑いながら、はい、と言って猫じゃらしを持っていない方の手で水を差し出した。

 男はそこで自分がもう何日も飲まず食わずでいたことを思い出し、渡された水を勢いよくあおった。

 二度、三度とおかわりをして、少女の用意した水を全て飲み干してからようやくひとごこち着いたように喉を鳴らした。

「すまねえな。あんまり疲れたんで眠ってたみてぇだ」

 水、ごちそうさん、と言いながら、男は欠伸をして思い切り背伸びをした。

 その様子をじっと見ていた少女はおもむろに口を開いた。

「お兄さん、初めて見る顔だよね。どこから来たの?」

「ん? 別にどこということもなく……気の向くままあっちへ行ったりこっちへ行ったり。あ、昨日まではここより南の港町にいたな」

「おうちは?」

「そんなもん、とっくにねぇよ」

 男は、はは、と笑って答える。

「お兄さん、もしかして……」

 少女は一旦言葉を区切り、眉をひそめて言った。

「ホームレスでしょう」

「な……っ、せめて旅するものと言ってくれ」

「旅烏? でもからすじゃないよね。黒いけど」

「だから……」

「んじゃ野良」

 心外だ。

 自分の言うことに耳を貸しそうにない少女にこれ以上言うのは諦めて、男はまだ礼を言っていないことに気が付いた。

「ええっと、あらためて、助けてくれてありがとな」

「どういたしまして」

「そういえばお前の……」

「タナ」

「は?」

「タナ。わたしの名前。可愛いでしょう?」

「……」

少女は春の陽だまりのように、にっこり笑う。

「……お前の家は? こんなに遅くなって家族とか心配してるんじゃないか?」

「……家族なんて、もう誰もいないの」

「え?」

 少女は少し離れた場所を指差して言った。

「そこがわたしの家」

「……は?」

 男は戸惑いを隠せずに聞き返した。

 少女が示した所は今ふたりがいるのと同じような空き地で、建物らしきものは何もない。

 混乱する男に構わず少女は話し続けた。

「以前はきょうだいがいっぱいいたんだけど、みんな旅立っちゃってもういないの。お父さんとお母さんの顔は知らない」

 事実を淡々と語る少女の表情は別段変わることも無く、それが却って男は気になった。

「……さみしくないか?」

「さみしい? どうして?」

「どうしてって、そりゃあ、こんなに小さいのにお前はひとりで、住む家もなくて……」

「さみしくなんてないよ。わたしたち、この足を伸ばしていけば誰かと繋がってるし、たましいはみんなと一緒なんだもん」

 少女はカラッとした笑顔で答える。

 対して男は少女の発言の意味が分からず、若干引いている。

(……この子……なんか変だぞ? 言ってる事よくわかんねぇし、……もしかしてヤバイ子なんだろうか……)

「? どうしたの、お兄さん?」

 介抱してもらった恩と目の前の人物の危険度を天秤にかけて、後者に傾くようだったらとっとと逃げようと心に決めて、男はもう少し様子を見ることにした。

「や、なんでもない……。で、でも偉いよな、お前」

「タナ」

「(無視)そんなにちっこいのに泣き言いわずにひとりで生きてるんだからさ」

「あら、わたし、本当はこんなに小さいわけじゃないよ」

「は?」

 男は何回目かの間抜けな声を上げた。

「本当なら、わたしお兄さんと同じくらいの年なんだ。もうお嫁にも行けるはずなの。……でも、どうしてか、大きくなれないの。ずっと子供のままの姿なのよ」

(……えーと……?)

「早く大きくなってうんときれいになって男をいっぱい侍らせたいんだけど……ふう」

 少女は切なげに深い溜め息をついた。

 少女の言っている意味がまるで分からず、心の天秤が“逃げ”の方に揺らいでいくのを感じながら、男は何とか言葉を返した。

「……そんなの、ほっときゃそのうち大きくなるもんなんじゃないのか?」

 少女は首を横に振る。夕陽に照らされたふわふわの髪がオレンジ色にキラキラと光っている。

「他のひとはそうかも知れないけど、わたしは違うの。……きっかけが必要なのよ」

(……やっぱり、こいつ、何か変だ。すっごく変だ……。)

 少女の言っていることがいよいよ自分の理解を超えていると感じて、男は激しく動揺した。

 天秤は振り切れた。

 決定だ。

 とっとと逃げよう。

 経験上、妙なものには関わらない方がいいと知っている。


 ……しかし、男の足は動かなかった。

 理由は分からない。

 少し、気になってしまったのかもしれない。

 もう少し様子を見てみたくなった。不思議な子ではあるが、悪い子ではなさそうだし。

 それに、と、男は少女を見ながら思った。

 夕陽に照らされたふわふわの髪が飴のように輝いて、妙に心に残った。




***


 翌朝。

 小鳥の鳴き声が聞こえてくる清々しい朝。

 男は早朝から何事か、ガサゴソと音を立てて作業をしていた。

 少女は自分の家(と言い張る空き地)から出て、歩いて数歩の距離の男の元へ向かった。

「おはよう。お兄さん、何やってるの?」

「おう、チビ、おはようさん。家作ってんだよ」

「家……」 

 男はダンボール箱を器用に組み合わせて、丁度よい大きさの家(本人談)を作っている。

「今朝散歩してる時に見つけてさ。結構いいだろう?」

 得意げな顔で聞いてくる。どうやら本気のようだ。

「……お兄さん、ここに住むの? 空き家とかの方がいいんじゃない?」

 探せばどっかにあるんじゃない? と言う少女に、男は渋った顔で答えた。

「うーん、どうやら縄張りかぶってるっぽくてなぁ……。俺はなるべく穏便に済ませたいんだよ。そうだ、今度散歩して良さそうな所見つけたら、チビ、お前に教えてやろうか? お前もロクな家ないんだろ?」

「タナ。ううん、いい。ありがとう。わたし、ここが好きなの」

「そっか。じゃあ、ま、しばらくは俺もここに住むから、お隣さんってことで、よろしくな」 


 時間は和やかに過ぎていく。




 男の家(?)作りも無事に終わり、ふたりがポカポカ陽気のもと、のんびりと昼寝をしていた時だった。

 ふと気配を感じて男は目を覚ました。少女はその横で気持ち良さそうに寝ている。

 通りすがりの小学生が数人近付いて来ていた。心なしか目を輝かせている。

「おい、こっちだって。見てみろよ」

「あ、ほんとだ。かわいー」

「だっこしてもいいかな?」

(……何だ、コイツら)

 少女を狙ってやって来たのだろうか。

 確かにこの少女は中身はトンデモ発言をぶちかます不思議っ子だが、ふわふわの蜂蜜色の髪といい、パッチリと大きな目やそれを縁取る濃い睫毛といい、見た目は春の妖精のように可憐だった。

 不埒な輩に目を付けられる危険は十分にある。

 男は俄かに警戒を強めた。

(チビには一応借りがあるからな、変な奴らからは守っといてやるか)

 昨日わが身可愛さに逃げようとしたことは、とうに忘却の彼方である。

「何だ、お前ら、何か用かよ」

「ね、ね、ちょっと触らせてよ」

 小学生のひとりがこちらに向かって手を伸ばしてくる。

(ああ? やっぱりコイツら、チビをどうにかしようってのか?)

 男は小学生の魔の手から少女を守るように、さっと前に出た。

「ふざけんな。いくら可愛いったって、こいつは見世物じゃねぇんだ。とっととどっか行けよ」

 少女の身の危険を感じ、つい大きな声で威嚇してしまう。男の剣幕に小学生たちはたじろいだ。

「そ、そんなに大声出さないでよ……。わ、悪いようにはしないからさ……」

「来んなっ!」

「うわあっ」

 男が叫ぶと、小学生たちは慌てて逃げていった。

(ふん。口ほどにもない奴らだぜ)

 男は隣の少女を見ながら、災難が無事に去ったことに安堵した。

 そして、少女の安全を自分が守りきったことを多少ならずも誇らしく思った。

 

 少女はまだ寝ている。

 仕合せそうな寝顔を見ていると、旅から旅へと根無し草のように流れているこの身の疲れも消え去っていくようで、男は知らず頬を緩めた。

(……変だな。出会ったばかりで、しかもこいつはよくわかんねぇことばっかり言ってる不思議っ子だってのに、そばにいると妙に心地良い……)

 その感情は初めて抱くもので、男は少し戸惑ったが、同時に心のどこかが満たされるのを感じた。

 

 午後の風がふたりのいる空き地を通り過ぎていく。

 少女の頬にかかった髪をそっと寄せてやり、男は風に揺れる草と気持ち良さそうに眠る少女を見つめていた。



***


(き、危険だ。ここはもの凄く危険だ……っ)


 すっかり日も落ちて、空には星空が拡がり、雲が流れながら月を出したり隠したりしている。


 男は一日を終えて、組み立てたばかりの家の中でぐったりと息を吐いた。

 未だ寝ているままの少女も一緒に連れてきた。

(いくらチビが可愛いからって、まさか、こんな一日中狙われるとは……)

 昼に小学生たちの襲撃を退けたあとも、次から次へと似たような事態に見舞われた。

 学校帰りの女子高生、会社帰りのOL、会社員、買い物帰りの親子連れ……。

(どいつもこいつもチビ狙ってやってきて……。確かにチビは可愛くて、ふわふわの髪とか、潤んだ瞳とか、ついついさらってしまいたくなる気持ちもわからんではないが、いや、それにしたって、ここいらの連中は皆変態なのか!? だとしたら危険すぎる……。チビ連れて早々に別の所に行った方がいいのか? でもチビはここから離れないって言ってたしな……。いや、やっぱり無理にでも……)

 男が埒の明かない事に悶々と頭を悩ませていると、少女はようやく目を覚ました。

 のんびりとさやさやとそよぐ夜風に身を任せていると、ふわりと雨の匂いが漂ってきた。

 やがてぽつり、ぽつりと、雫が今日こしらえたばかりの男のダンボールの家に濃い染みをつくっていく。

「あ……雨」

「お、チビ起きたのか。ん? 本当だ。やべーな、この家もつかな……」

 男は不安そうにダンボールの天井を見上げた。

 少女はすっくと立ち上がると外を見て楽しそうに言った。

「わたしちょっと外に出てくるー」

「お、おいっ、濡れるぞ!」

「へいきー。お兄さんも一緒に出る?」

「……遠慮しとく」

「そう? 気持ちいいのに」

「……濡れるの、好きじゃないんだよ」

「そうなんだ。わたしは好きだよ。雨の中で踊るの」

 そう言って少女は軽い足取りで外に出て行く。

(雨の中で踊るとか、さすがは不思議っ子……)

 呆れたような感心したような気持ちの男が止める間もなく、少女は家の外へと飛び出していった。

 

 雨が本降りになってきて、ダンボールに打ち付ける雨音が大きく響いて少し耳に痛い。

 少女はまだ帰って来ない。さすがにこのままでは風邪を引いてしまうかもしれないと、男は心配になり意を決してダンボールから顔を出した。

 するとそこには昼間の小学生のうちのひとりが傘を差して立っていた。

 男は反射的に身構えた。

「……なんだよ、まだ何か用があんのか?」

 幸い今ここに少女はいないとはいえ、油断はできない。低い声を出して唸る。

「あ、あの、これ……」

「?」

 小学生はおずおずと手に持っていたものを差し出した。




「ただいまー」

 小学生が帰り、入れ替わるようにして少女が帰ってきた。

 この雨の中を本当に踊ってきたらしく、頭からずぶ濡れになりながらも、頬は紅潮して目はいきいきと輝いていた。

 水を吸って色を濃くした蜂蜜色の髪の毛を、頭を傾けながら左右順番に絞っている様子を見ながら、男が声をかけた。

「遅かったじゃねぇか。迎えに行くとこだったぜ。風邪引いたらどうすんだよ。」

「平気だよ。わたし体は丈夫だから」

「まあ、でも無理すんなよ」

「うん……ってコレは?」

 少女はダンボールの新居を覆うように置いてある傘を指差して尋ねた。答える男は上機嫌だ。

「昼間のガキが持ってきてくれた。それにほら、メシまで。あいつ、意外といい奴だったな。怒鳴って悪かったかな」

「昼間の? なんのこと?」

「ああ、お前寝てたもんな」

「タナ」

 少女は自分の名前を主張した。

 しかし男は華麗にスルーして続ける。

「お前が寝てる間に色んな奴がお前をかどわかそうとやって来てたんだよ。今日は俺が追い払ったけど、お前いつもあんな目に遭ってるのか?」

「? ううん、そんなこと、初めてだよ」

「そっか。でも気をつけろよ。結構やばい奴らだったぞ。『ふわふわだ』とか『だっこしていいか』とか果ては『連れて帰る!』とか言ってたからな」

「……ねぇ、それってもしかして……」

 少女は思い当たることがあるらしく、何か言いかけたが、声が小さかったため、男の耳には届かなかった。

「まぁお前は中身はともかく、見た目は可愛いんだから」

 男は少女の頭をぽんぽんと撫で、微かに笑った。 

「……、……」

 少女は言いかけた言葉を喉の奥で変な具合に飲み込んでしまった。

思いがけない男の言葉に、少女は褒められて嬉しくなればいいのか、けなされて怒ればいいのか分からない。

 ただ、初めて見る男の笑顔に胸が大きく、ひとつ鳴った。

「……?」

「そうだ、さっきもらったメシ、チビも一緒に食うか?」

 少女は初めての感情に戸惑いながら、撫でられた頭を触りながら、

「……タナだよ」

 難しい顔でそう言うのがやっとだった。




***


 小鳥の声がする。


 眩しくて暖かい。朝が来たのだろうか。少女は心地良いまどろみに包まれている。

「……ナ。タナ。おはよう。ふふ、いつまで寝てるの? ねぼすけさんね」 

 懐かしい声がする。もうずっと聞いていなかったような、ついさっきまで聞いていたような。柔らかく、安心できる、大好きな声だ。

(……?)

 覚醒しきらない意識で考えてみる。誰の声だっただろうか。

「……お姉さん?」

 ふふ、と優しい笑みを浮かべた女性は、少女の大好きな姉のひとりだった。

 兄弟は多かったが、このすぐ上の姉とは特に仲が良かった。

 いつまでたっても幼いままの少女を常に気にかけてくれていた。

 姉は少女の頭を撫でてやると、少し哀しそうに笑った。

「タナ。……時が来たわ。私もそろそろ行くわね……」

「お姉さん……」

「あなたをひとり残していくのはつらいのだけど……」

 切なそうに目を伏せた姉に、少女は頭を振った。

 少女は知っていた。この姉は、本来ならとうに旅立っていても良い頃合いなのに、いつまでも成長しない自分を心配して留まっていてくれていたということを。

 他の兄弟たちがひとり、ふたりと時期が来ると旅立って行っても、最後まで共にいてくれた。

 少女は、大好きな姉の、自身の仕合せを見つけて欲しかった。とびきりの笑顔で見送ろうと思った。

「大丈夫よ、お姉さん。……今まで、本当にありがとう」

 大好きな姉との別れに涙が出そうになったが、ぐっと堪えた。

 これでとうとう本当にひとりになってしまう。

 広い野原に、たったひとりぼっち……。


 ――ひとり。


 ………………?


 ……そうだったろうか。


 いや、そうじゃない――。


 今ままではそうだったかも知れないが、少なくとも今は違う。今は――。


「……お姉さん、わたし、もうひとりじゃないのよ。今は流れ者の黒いお兄さんが隣にいるの。ぶっきらぼうで単純だけど、知り合ったばかりのわたしのことを守ってくれようとする、優しいひとなの」

 先日知り合ったばかりの男のことを話していると、少女は知らず知らずの内に優しく温かい気持ちになっていった。

 いくら言っても自分の名前を呼んでくれないし、子供相手に本気で怒っちゃうようなひとだけど、彼に頭を撫でられると嬉しくなるし、その笑顔を見ると息が止まりそうになり、呼吸が速くなって胸が苦しくなるけれど、同時に心が温かくなる。

 

 今はそんなひとが隣にいてくれるのだから、さみしくなんてない。

 

 それを聞いた姉は目を大きく見張り、それから嬉しそうに微笑んだ。

「ああ、タナ。あなたも見つけたのね。よかった……」

「見つけた?」

「ええ。そのひとがきっと、あなたに『きっかけ』をくれるわ」

「『きっかけ』……」

 

 少女が姉の言葉を反芻していると、ひときわ強い風が吹き抜けて、周囲の草や花の種を連れ去っていった。

 


 やがて白い光が周りを包み、少女は意識が遠のいて行くのを感じた。




***

  

(……夢?)

 早朝の柔らかい日差しの中、少女はぼんやりと目を開けた。

 何か、夢を見ていた気がする。懐かしく、温かい夢。とても大事なことを教えてもらったような――。

 夢から覚めて、少女は胸が満たされているような、けれども決定的に何かが足りないような、そんなちぐはぐな気持ちに圧倒されていた。

 この気持ちは何だろうか。よく分からない。

 男に会えば、このもやもやとしたものの正体が少しは分かるだろうか。

 少女はとにかく男に会いたくなって、ダンボールの中へ飛び込んでいった。

「おはよう、お兄さん。ねえ、ちょっと聞いてほしいんだけど……」

 しかし、男の家はがらんとしていて、家主の姿はなかった。

「……お兄さん?」

 声を掛けてもやはり返事はない。

 少女は言い知れぬ不安に襲われた。

 男はふらりとやって来た。

 仮住まいを設けたとはいえ、こんな簡素な、家とも言えないような住まいだ。

 またふらりとどこかへ行ってしまうのかもしれない。

 男は自由の者で、少女には男の行動に言及する権利なんてない。

 それでも、男がいなくなってしまったかと思うと、少女は泣きそうなくらい焦りを感じ、悲しくなった。

 きょうだいが旅立って行った時でさえ、こんなに強い悲しみは感じなかった。


 何故かは分からない。

 でも、少女は男にどこにも行って欲しくないと思った。


「お兄さん……」


  少女がほとんど泣きながら呟いた声は、朝の空気の中に消えていった。


 ――そのひとがきっと、あなたに『きっかけ』をくれるわ――


(きっかけ――)


 突然、少女は眩しい光と共に目の前が開けたのを感じた。

 心の奥深くから湧き上がってくるあたたかいもの。

 それが少女の体を駆け巡り、細胞のひとつひとつを満たしていく。


(ああ……これが……)


 ずっと、求めていたもの。分からなかった感情。探していた最後の一ピース。

 少女は言葉を失くし、温かい光が止め処なく湧き出る胸を押さえながら、涙を一筋零した。




「チビ?」

 後ろから男がのんきな声を掛けてきた。

 どうやら出て行ってしまったと思ったのは少女の早合点で、ただ早朝の散歩に出ていただけらしい。

「どうした、チビ……って、な、泣いてんのかっ?」

 少女の頬に光る雫に気付き、男は慌てて尋ねた。

 眉を下げて覗き込んでくる男の様子が可笑しくて、少女はふふ、と微笑んだ。

「……ナ」

「ん?」

「タナ、だよ。お兄さん」

 少女はにっこりと笑った。それはまるで満開の春の花のようだった。


 そしてゆっくりと両手を伸ばし、男に抱きついた。


「好き」


「ん?」

「好きなの、お兄さん」


「……え? ……は……?」


 混乱する男には構わず、少女は首に回した腕に力を入れる。

 

 辺りでは一面に黄色の花が咲き乱れている。


 少女の姿が段々と変わっていく。

 蜂蜜色のふわふわとした髪は長く伸びて腰の辺りまで届き、長い睫毛はさらに濃くなり、宝石のように澄んだ瞳は輝きを増している。

 頬は朱く色づき、さくらんぼのように潤んだ小さな唇は形のよい弧を描いている。


「分かったの。お兄さんが私の『きっかけ』だったんだって」

「いや、え、ちょ、ちょっと……。俺には……な、何がなんだかさっぱりなんだが……?」

 瞬く間に少女は大人の女性へと変貌を遂げ、少しあどけなさの残る顔で仕合せそうに笑った。

 状況が飲み込めずに固まる男に、タナは説明した。


「私たち春の花はね、お日様の光を浴びて、大きくなって、恋をして、想いをふわふわの綿毛に込めて、風に乗って旅立つの。そして新しい場所でまた根を張って生きていく。みんなは自然とそうなっていくんだけど、私だけは違った。私にはきっかけが必要だったの。開花する(大人になる)ためのきっかけが。それをくれたのがお兄さんだった。お兄さんが、私に恋をくれたの。ありがとう、お兄さん」


 突然、少女が大人の女性になるという展開に、戸惑いながらも男は何とか理解しようと努める。


(ええと、チビは何でいきなり成長した……?)


 自分がきっかけを与えたから、大人になることができたと言っていた。

 きっかけ。それは何だったか? 

 恋だと言った。……恋? 

 それと、好きだとも言っていた。

 ……好き? 

 

 誰が? 誰を? 

 

 チビが……俺を……? 


 ……好き……? 


 え……?


「……え? ……え、ええっ? すっ……!?」


 好き!?


 思考がそこまで辿りついたところで、男は勢いよく真っ赤になった。

 もう耳の先まで真っ赤っかだ。

 黒い毛で覆われているしっぽも先端までピンと立って、興奮で毛羽立っている。

 今まで自由気ままで旅をしてきて、好きだなんて初めて言われた。

 男は何といったらいいか分からず、ただ固まった。


 タナはそんな男の様子を見て、首に回していた腕を一旦ほどき、呆然と立ちすくむ男の腕に絡ませて、また、ふふふ、と笑った。

「さてと、私も無事に開花できたから、これからもずっとお兄さんの側にいるね」

 その言葉に男はハッと我に返った。

「……そういえば、さっき、綿毛になって飛んで行くって……」

「うん、そうだよ。お兄さんは旅人なんでしょう? 私も綿毛になって一緒に行けるよ。ふふっ、楽しみだなぁ」

 怒涛の展開に男は深く考えることを諦めて、現状を受け入れてしまうことにした。

 男は随分と柔軟な心の持ち主だったらしい。

「……でも、綿毛ってことは、それはチ……タ、タナ自身じゃないってことじゃないか……?」

 

 タナたち春の花は恋をして開花したら、その想いを綿毛として結実させる。

 その姿は、春の盛りに咲き誇る黄金色の今のタナとはもう別物ということになるのではないか。


 混乱して不安げに聞いてくる男の目を見つめ返しながら、タナは不敵に笑う。

「やっと名前呼んでくれた。……言ったでしょ? わたしたち、この足を伸ばしていけば誰かと繋がってるし、たましいはみんなと一緒なんだって。子どもでも、孫でも、何代あとになったとしても、私はお兄さんのこと覚えてる。この気持ちもずっと変わらない」


 太陽はすっかり昇り、澄んだ青空には白い雲がちらほら浮かんでいる。

 少し強い風が東からザアッと吹き抜けていく。

 

 タナは春の妖精のような笑顔を浮かべてにっこりと男に言う。

「花の命はけっこうしぶといんだよ。お兄さんが嫌って言っても、背中にくっついて一緒に行っちゃうんだから」

 その言葉と満面の笑顔に、男はふっと頬を緩めて、どこか照れたように答える。

「そっか……。べつに、俺も嫌じゃねえよ」




 ある晴れた春の日。

 一面に黄色い春の花が咲き乱れた野原に、寄り添って風に吹かれる

 黒猫とたんぽぽの姿。





 おしまい


お読みいただき、ありがとうございます。


「タナ」はそのままたんぽぽの古名で、漢字では「田菜」ちゃんとなります。

そういえば、黒猫のお兄さん、最後まで名前出てこなかったデスネ……。


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