訓練開始
「ひゃー、なんなんだよこれは」
エスタトゥアは目の前の光景を見て驚愕した。
何しろ彼女は生まれて初めて町を見たのだ。二階建ての石造り建物に、石畳の道路。街路樹に街灯など見たことのない物ばかりだった。
さらに多くの馬車が行き交い、人種も様々だ。なんだが酔ってくる。人の熱気で頭がくらくらしてきたのだろう。
ここは東にある海岸線に位置する町であった。港には大きな船が泊まっている。エスタトゥアは興奮していた。主となるラタジュニアに質問をしている。
「ここはプリメロの町だ。フエゴ教団本山に比べれば規模は小さいが、なんでもそろっている町だな。ここでお前の商業奴隷に登録するんだ」
ラタジュニアは幌馬車を進める。やがて三階建ての建物にたどり着いた。まるでおとぎ話に出てくる宮殿のようであった。入り口には黄金の猫を模った紋章が飾られている。
さて二人は中に入る。あるカウンターまでやってきた。金色の猫の亜人で、青いチョッキを着て眼鏡をかけていた。受付嬢だろう。
「いらっしゃいませ。フレイア商会へようこそ。本日はどのようなご用件でしょうか」
受付嬢は礼儀正しく挨拶した。
「私の名前はラタジュニア。エル商会の代表です。今日はこの子を商業奴隷として登録に来ました」
すると猫の受付嬢は目を見開いた。
「まあ、今をときめくエル商会の代表者がいらっしゃるなんて。わたくしは幸せ者でございます。商業奴隷の登録ですね。では前金として二十万テンパをいただきますが、よろしいでしょうか?」
「はい、どうぞ」
ラタジュニアはカバンから紙の束を取り出した。受付嬢はそれを手にするとぺらぺらとめくり始める。そして納得したのか、紙の束を置いた。
「二十万テンパを確認いたしました。ではこの書類にサインをお願いします」
差し出された紙にラタジュニアは羽ペンでサインを書いた。エスタトゥアは何をしているのかさっぱりわからない。そもそも先ほどの紙の束はなんだろうか。いや、彼女は紙すら知らなかったのだ。
「なあ、それなんだよ。葉っぱの束みたいなもの。なんか価値があるのはわかるけど、さっぱりわからないな」
「……、なるほど。わたくしどもの責任は重大でございますね」
「ああ、一から教育を頼みたい」
ラタジュニアと受付嬢は何やら目を合わせた。何やらエスタトゥアに対してあまりよくないことを理解したようである。なんとなく自分が馬鹿にされたと直感したが、口にしなかった。
「さてエスタトゥア様はこれから一か月間、フレイア商会の職業訓練所で過ごしてもらいます。その間はご主人様とは面会できませんのでご了承ください。必要なものはすべてご用意させてもらいますので、空手でも問題はございません」
受付嬢に言われて、エスタトゥアはラタジュニアと別れた。会えるのは一か月後である。
「寂しくても泣くんじゃないぞ。ここにはお前と同じ立場の人間は大勢いる。お友達はいっぱいいるわけだ。それにフレイア商会の人間は自分の身がかわいいんだ。お前をいじめて恨みを買うことは絶対にしない」
「いや、寂しくないよ。あんたとは出会って数日も経ってないだろ。むしろ人が多そうで不安だけどな」
エスタトゥアはあっけらかんと答えた。これから一か月間、彼女は商業奴隷として訓練を受けることになった。果たして彼女は耐えきれるのか。
☆
一週間後、エスタトゥアは頭がぐだぐだに煮えたぎっていた。覚えることがあまりにも多くて頭がついていかないのだ。まるで中に熱した石を入れられたようである。
まずは文字の読み書きに、算数を習わされた。足し算に引き算、九九に割り算を習わされる。そもそも一とか二ならわかるが、零など初めて知ったくらいだ。まるで未知の文字を読まされた気分になる。
文字なんて書いたことがないから混乱していた。教師は黒猫で三角眼鏡をかけていた。なんとなくヒスっぽい雰囲気がある。
いわゆるスパルタ教育で異常なまでの厳しさであった。できない者は容赦なく叱咤し、できたらべた褒めするなど飴と鞭を使い分けていた。うまくできたときの感動が忘れらずにいるのだ。
おかげでエスタトゥアはわずか一週間で自分の名前が書けるようになり、九九もできるのだ。軽く彼女は感動を覚えた。それは他の者も一緒である。
「それにしてもここはこの世なのかねぇ? とても現実にある世界とは思えない」
それが素直な感想であった。
彼女は初日、健康診断を受けた。身長や体重、胸囲を測るのはもちろんのこと、検尿に検便、採血やレントゲンなるものも取られる。白い衣服を着た看護師なるものがきちんと説明してくれたが、それをする意味がさっぱりわからなかった。
あとは自分が今まで食べてきたものを説明させられた。これはラタジュニアが事前に彼女の家の中にあった保存食を提出されたのではかどった。
「小さい頃は変な草を食べさせられたっけ」
エスタトゥアは幼少時の頃に食した植物を語った。
家の周りに植えてあり、母親が幼い子供にだけ食べさせていたという。数年前に枯れてしまい、どんな植物だったかはわからない。
なんでも亡くなった父親が所持していたもので、最初は球根だったという。それを母親が野菜の代わりにして娘に食べさせていたというわけだ。
採血以外は一日で検査結果が出た。同年代と比べると栄養が偏っており、病気一歩手前だそうな。それ故に毎日出される食事はバランスのとれたものだった。
アライグマとイノブタのひき肉で作られた煮込みハンバーグ。
トマトやレタスなどの生野菜のサラダ。
砂糖と蜂蜜で味付けされた暖かいヤギウシの乳。
そして柔らかいパンが出された。
最初エスタトゥアは人の食べる物かと疑ったがすぐそのおいしさに嵌った。
これらはフレイア商会で働く商業奴隷たちが作っているという。
他にもヌートリアやアナウサギ、アカシカや年老いたヤギウマやヤギウシの肉などが出された。
たまにブラックバスやブルーギル、コイなどの魚料理を出されたこともある。どれも濃い味付けであり、どれもおいしくいただいた。
なんでも痛みかけた食材らしいが気にならない。食材を無駄にせず使える物は使う。それが料理人たちの矜持だという。
数年前にガトモンテスという山猫の亜人がおり、解放奴隷になった後、キノコの亜人たちが住むオンゴ村で店を開いた話もあるのだ。
商業奴隷たちの着る服も、先輩奴隷が仕立てた物であり、新人の面倒はすべて先輩の仕事である。
その先輩たちから、将来やってくる後輩たちの面倒を学ぶのである。
「大事なことは自分のために他人に優しくすることザマス」
黒猫先生が答えた。自分のために他人に優しくする? 一体どういう意味なのだろうか。
「簡単に言えば情けは人の為ならずザマス。これは人に尽くした情けは、いずれめぐりめぐって自分にかえってくることザマス。
自己中心的な人は情けをかけるのはその人のためにならないと決めつけるザマスが、これは誤りザマス」
「でも人に優しくしても必ずいいことが起きるわけじゃないでしょ?」
エスタトゥアは手を挙げて質問した。
「その通りザマス。中には人の善意を踏みにじるのが楽しくてたまらない輩もいるザマス。
でも仮にそんな人が助けてと懇願されて、助けるザマスか?
自己愛に溺れ、他人を傷つけても己を顧みない人間を助けたいと思うザマスか?」
黒猫先生は真剣な面持ちで答えた。確かに普段意地悪している人間を、いざ危機が迫っても助ける人はいないだろう。
もちろん皆無とは言い切れないが、助けてもらっても感謝せず、助けて当然だという態度を取られたら気分が悪くなるだろう。
そうなれば周りの人間からますます嫌われるのは必須だ。即効性はないだろうが、遠い未来孤独に生きる羽目になる。実際に黒猫先生はフレイヤ商会にいた従業員の例を挙げていった。
☆
「君ってラタジュニアの奴隷なんでしょう? 羨ましいなぁ」
昼食をとっている最中にエスタトゥアは同期の子に声をかけられた。人間の少女だ。髪は金色で、肌が病的までに白かった。名前はイサベル。フレイ商会の商業奴隷だというのだ。
ちなみにフレイ商会はフレイヤ商会とは別物だ。フレイ商会の会長は猪の亜人で、フレイア商会の会長、こちらは金色の猫の亜人の兄だそうな。
広い食堂では訓練生だけでなく、フレイヤ商会に勤める従業員や商業奴隷たちが食事をとっていた。
今回訓練生たちは食堂で思い思いのメニューを購入することになっている。
エスタトゥアが注文したのは年老いたヤギウシのシチューだ。それとパンが三切れ、野菜サラダ付である。
二週間後、一通りのスパルタ教育を受け、エスタトゥアは賢くなった。
文字の読み書きから、計算の仕方、さらに社会の仕組みを教わり、世界が開けた気がした。額に第三の眼が生まれた気分だ。
「羨ましいだって? 俺にはよくわからないな。だってお前の方が規模は大きいだろう?」
これはエスタトゥアの素直な感想である。
勉強していけばラタジュニアとフレイ商会と比べると月とスッポンほどの差があるとわかった。
ちなみにどちらもフレイア商会と比べると雲泥の差がある。
フレイア商会は紙幣を発行しているのだ。
銅貨一枚で百テンパ。
銀貨一枚で千テンパ。
金貨一枚で十万テンパとなる。
ちなみにテンパとはテンパランスを略した言葉だという。
ちなみに紙幣は一万から百までしかない。
一万テンパ十枚で金貨一枚と交換されるのだ。
他にも金や銀、鉄の鉱物だけではなく、宝石類でも交換できる。
各地に支店があり、人々は預金通帳で自由に金を預け、引き出すことができるのだ。
他にも医療保険や生命保険、災害保険などがある。
小さな村では浸透していないが、大きな町なら一般人でも保険に加入しているのだという。
「確かに規模は小さいよ。でもラタジュニア様は今をときめくお方よ。
あの方は斬新なやり方で自身のエル商会を大きくしたの。
確かにあたしはフレイ商会の商業奴隷だけど、そちらのほうが羨ましいわ」
イサベルは心底羨ましいと思っている。それは彼女だけではなく、他の奴隷も同じだった。エスタトゥアがご主人様の話をすれば決まってそうなるのだ。
エスタトゥアはそこがわからなかった。身近にいるから気づきにくいのだろう。
金だけなら他の商会が一番なのだが、彼女らはそれ以外にエル商会を目にかけているようだ。
「でも風当たりが強いのも確かなのよね。
なんたって普通は司祭の杖なんかになれないんだもの。
まあ、母親が司祭で、母方の司祭が不足しているらしいけどね」
「司祭ねえ。なんか面倒臭そうな立場なのはわかるけどな」
最初は理解できなかった司祭の立ち位置だが、さすがに勉強したのである程度はわかる。
司祭とは特殊な技術を持つ、技術職の事なのだ。
各種の薬品の製造から、電気製品の部品や、ガラスなどを製造するらしい。
なので司祭は商人と比べ物にならないほど贅沢な生活ができるそうだ。
指先一つで太陽のような明かりが付き、冷たい水は熱湯に変わる魔法の箱があるという。
その生活を味わうともう禁断の薬草の如く、二度と手放せないそうだ。
だがエスタトゥアは羨ましいと思わない。そもそも今の生活だけでも十分満足なのだ。
贅沢な食事に暖かいベッドに風呂。実際は村にいた頃の粗末な食事に比べての話だ。それに比べてのことである。
もうあの村で味わったあばら家での生活などできっこない。もっとも職業訓練ではどんな場所でも寝れるようにするらしいが、それはそれである。
「黒猫先生も言っていただろう?
隣の花は赤いとね。同じようなものでも人のものは良く見え、欲しくなると思うたとえだよ」
エスタトゥアはシチューを食べた。イサベルはやれやれと首を振った。