真相と結末
僕は約束の時間ちょうどに着くように、警察署の階段を登っていた。
事情をなにも話していない北山さんは「なにをするんですか?」と、訝しげな表情をしつつも一歩後ろをついてきている。
屋上に続く扉のドアノブを押し開けると、そこにはすでに成二さんの姿があった。
彼は胸の辺りまである柵に手をかけて、どこか遠くを眺めている。
僕は少し離れた場所で立ち止まり声をかけた。
「今日は早いんですね」
「雨も降りそうだしな、早く用件を済ませたいんだ」
こちらには一瞥もくれずに彼は空を見上げた。
鉛色の空は、雨を降らせるタイミングを見計らうように、どんよりと流れる。
「……ぇ……新垣さん?」北山さんが呆然と彼の名を呼んだ。「なんで……」僕と彼を何度も見比べ、状況の説明を促している。
「お前ら付き合ってんだろ? 毎日一緒にいやがって」
「僕と成二さんがコンビを組んでたときだって、いつも一緒にいたじゃないですか」
近くにそびえ立つ高層ビルが、ちっぽけな僕らを見下ろしていた。
まるでこれから始まる出来事を、下らないことだと、嘲笑っているように見えた。
「だからわかったんだろ?」一瞬彼の言っていることがわからなかった。「毎日一緒にいたお前だから、だから事件の真相がわかった。俺はそういう風にしたんだ、そうじゃないと困る」
「やっぱりそうでしたか……」
「ちょ、ちょっと待ってください、私まだついていけてないです。事件の真相? 先輩だからわかった? そういう風にした?」
彼女は僕に言い、それから成二さんを見た。
「その言い方だとまるで、新垣さんが……」
「そうだよ、この一連の事件の犯人は成二さんだよ」
僕は成二さんを見据る。彼は少しだけ笑って煙草をくわえた。
「そんなっ、でもっ……」
僕を見上げる彼女の瞳は揺れていた。あまりに唐突なことで、その事実を受け入れられないのだろう。
なにしろ今回の事件で一番傷ついているのは、間違いなく成二さん本人なのだから。
発火石の付いた安っぽいライターで彼は火をつける。
「話して聞かせろよ、北山ちゃんが納得できるようなお前の推理を」
「はい、わかりました」
彼の吐いた煙草の煙は風で空中に霧散する。
あの姿を見て僕も煙草を始めたのだった。
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「最初に気になったのは、証拠がなにも残っていないということよりも、それに対して成二さんが早々に諦めていたことです」
僕は最初の事件の現場から戻ってきた成二さんが「なにもない」と断言していたときのことを思い出す。
「鑑識の結果もまだ出ていなかったのに、そんなことを言うなんて、らしくないと思いました。それに僕は、あの現場で黒い焦げ跡を見ている。成二さんがあれを見落とすはずがない」
「焦げ跡、ですか?」
「うん、そのときは何の焦げ跡かわからなかったけど、今ならわかる。成二さんが犯行のときに煙草を揉み消した跡ですよね」
僕は真っ直ぐに彼を見る。
「それが何故、俺が煙草を消した跡だとわかるんだ?」
「灰皿のない屋外で煙草を吸ったあとは、それを地面に落として踏んで消す人が多い。そのまま捨てていく人も多いですけどね。雨で濡れているのだとしたら、なおさら消しやすい」
「……」
「でも僕の場合は壁に押し付けて火を消すんですよ、成二さんの影響を受けて始めた煙草。消すときの癖まで真似してしまってますからね」
「癖まで真似してんのか、もう気持ち悪いの領域だな洋介ェ。だがそれだけで俺を犯人だと断定したのか?」
「違いますよ、その焦げ跡見ただけでは成二さんのことを疑ってすらいなかったですよ。疑いを持ったのは夏紀さんが殺されてからです」
「ど、どうしてですか!」北山さんが困惑気味に言う。「夏紀さんが亡くなって一番辛い想いをしたのは新垣さんじゃないんですか? あの涙はすべて演技だったとでも言うんですか?」
「演技だったのかどうかはわからない、少なくとも僕には演技には見えなかった」
「だったら──」
「それでも、犯人は成二さんだと、夏紀さんの遺体は物語っていた」
僕は最後の彼女の姿を鮮明に思い出す。
「あの事件の前の夜、つまり夏紀さんが殺させる少し前に、僕は電話で話してるんだよ。成二さんがまだ帰って来ないけど知らないかってね。
夏紀さんの話す側からはテレビの音も聞こえていたし、そのときまでは確かに自宅にいたんだ。
でも彼女は外出をした……事件が続いているのを知ってて、夜中に一人で……」
北山さんが続きを促すように黙って僕を見ていた。
「夏紀さんだって無用心な人じゃない。一人で夜中に出歩くなんて、まして誰かの呼び出しについていくなんて思えない。ただ成二さんに呼び出されたら別だろうけどね」
成二さんは肺の中の煙を吐き出す。「俺が呼び出した根拠は?」
「素っぴんだったことです。僕も夏紀さんと出会って3年になりますけど、彼女の素っぴんを見たのは初めてだった。そんな人が化粧もせずに会いにいく相手なんて夫である成二さんしかいない」
「ふっ、よく見てるな」
成二さんはそのことを肯定するように鼻で笑い、また煙草を吸う。先端がじりじりと赤く燃え、少しずつ短くなっていった。
「本当に……本当に新垣さんが犯人だとして……目的はいったいなんですか? 何故あの人たちを、夏紀さんを殺したんですか?」
ここからが本当にわからないことだった。
だから僕には推測をたてることしかできなかった。
「洋介、ここから先もわかってるのか?」
彼は僕を試すように言った。
「本当のことはわかりません。ですか、推測はしてみました」
成二さんは短くなった煙草を柵に押し付けて消した。「ほう、聞かせてくれよ」
「最初は誰かに命令されているのかと考えました。しかし、どんなことで脅されていようと自分の子供を身ごもっている夏紀さんを殺すはずがない。警察の組織力を使って解決するばすですから」
彼はまた煙草を取りだしくわえる。空になった煙草の箱をくしゃりとねじって、上着のポケットに押し込んだ。
手で風を遮り、ライターで火をつける。
「そこで僕は、誰かにではなく、自分に命令されているのではないかと考えてみたんです」
「────っ!」
成二さんは目を見張って顔を上げる。その表情は驚きに満ちていた。
「えーと、どういう、意味ですか?」
北山さんは怪訝な表情をする。普通はこの反応が正しいはずだ、彼の驚きは異常と言っていい。
「もし成二さんの右耳を隠す癖、あれが考え事をしているのではなく、幻聴のようなものを聞いているのだとしたら」
「幻聴? 幻聴が人殺しをしろと命令したとでも?」
「あり得ないことじゃない、この世に絶対なんてことはないんだ。とりわけ人間の脳のことなんて、これだけ科学技術が発達した現代でも、まだ半分も解明されていないと言われている」
「人間の、脳、ですか?」
「うん、幻聴は耳で聞いているものじゃない。脳が聞こえていると勘違いをおこしているんだ」
彼女はわかったような、わからないような、曖昧な顔をする。
「統合失調症というのがある。思考、知覚、感情、言語、自己と他者の感覚、これらに歪みが生じることのある精神障害の一つだよ」
「……統合失調症」彼女はただその言葉を繰り返した。
成二さんは煙草をくわえることなく、呆然と僕を見ている。煙草の先端にたまった灰がぽろりと落ちた。
「統合失調症は珍しい病気じゃないんです。しかしその症状は人によって振り幅が大きい。主に幻聴を引き起こすことが多いのですが、中には自分への具体的な悪口が聞こえたりすることもあるらしいです」
「その病気が新垣さんに命令をだしていると?」
「うん、普通ならあり得ないことだと思う。しかし、100%あり得ないことかと聞かれたら、断言はしきれないだろ? 悪口や不快になるような言葉を聞いている人は実際にいるんだ。
あくまで僕の推測ですから真実はわかりようもないですけどね」
僕は成二さんを見た。
「ふはっ、ふふっ、ははははははっ」
彼はこらえきれないというように笑いだす。
「凄いな、洋介。統合、失調症、だっけ? その名前は俺も知らなかった。そもそも病気だと思ったことが一度もなかったからな」
思い出したかのように煙草を一度吸う。
「そこまでわかっちまうのか、お前は本物の天才か? あとは俺が話してやるよ天才と呼ばれた操り人形の話をな」
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「俺は刑事になってから二年間、なんの手柄もあげられなかった。今思えばそれは普通のことだった、しかし俺は若かったんだな。一人で焦って、一人で追い詰められていった。そんなときだった」
成二さんは柵に手をかけて町を見下ろす。
「とある事件の現場で突然その声は聞こえたんだ、最初にきこえたのは『足』それだけだった。
そして現場には下足痕が残ってた。結局その事件はそれが決定的な証拠となって解決したんだ」
ぽつぽつと語る彼の声は、少し離れた場所に並び立つ僕と北山さんにまで明瞭に聞こえた。
「それから事件がある度にその声は聞こえるようになった。ささやくように耳元で声がするんだよ。
最初は単語だけだったささやきが、徐々に具体的なことを教えてくれるようになっていった。この前の首吊りに見せ掛けた事件のこと覚えているか?」
「はい、もちろん」
「あのときなんて『男のバッグの中の手袋に被害者のつけ爪が入っている』なんて聞こえたんだ。
あとはそのことを俺が言っても不自然じゃないように、つじつま合わせを考えるだけ。これまでの事件は全部そうやって解決してきた」
これが本当の俺だ、と自嘲気味に笑う。
「周りが天才と囃し立て、俺自身もこのささやきは神様が与えてくれた特別なものだ、なんて馬鹿なことを考えていた」
「それでも、わかりません」
北山さんの声に成二さんはこちらを振り向いた。
「そのささやきが聞こえたからって、なぜ人殺しまでしてしまったんですか?」
彼は最後に大きく煙草を吸い、柵に押し付けて消す。
「最初に大森麻衣子を殺せと聞こえたときには、アホかと取り合わないことにした。でも、何度も繰り返しそれは聞こえるんだ。そこで俺は彼女のことを調べることにしたんだ」
そして知ったのだろう。大森麻衣子がヤクザと絡んでクスリを流していることを。
「調べれば調べるほど、奴は人間のクズだった。このささやきの言う通り、殺してしまった方が苦しむ人が減ると思ってしまった」
「それで、それだけのことで殺人を……」
「……ああ。警察として逮捕するべきだったのはわかっている。しかし、神様から与えられたこのささやきが殺せと言っているんだ。あのときの俺には、それこそが本物の正義だと思っていた」
客観的に見るとあまりに不合理な彼の行動も、彼にとってはそれが確信的であったのだろう。
本当に統合失調症が原因なのか否かはわからないが、彼の言う「神様のささやき」に洗脳され犯されていたのは事実だ。
「それはらは泥沼だよ。二人目の大学生は、万引きの行為をしていただけ。三人目のサラリーマンにいたっては、なぜ殺さなくてはいけないのかまったくわからなかった。それでも殺せとささやかれる」
そうしてささやきに逆らえなくなった成二さんは、夏紀さんまで手にかけてしまった。
「夏紀を殺せと言われたときは、狂ってしまいそうだった……いや、もうすでに狂っていたんだよな」
夏紀さんのことを思い出したのだろうか、彼は表情も変えずに涙を流した。まるで涙腺が壊れてしまったかのように、ただただ涙を流したのだった。
「俺にささやいていたのは神様なんかじゃなかった。俺がずっと聞いていたのは悪魔のささやきだったんだな。俺は悪魔の代行を演じていただけだったんだよ」
今回の事件で彼は多大な罪を犯した。しかし彼もまた被害者だったのかもしれないと僕は思った。
一課のオフィスで彼が発狂したときのことを思い出した。
『洋介ェ、俺は……俺はどうすればいい!?』
あれは僕に助けを求めた精一杯の叫びだったのだ。僕に自分の犯行を止めてほしかったのだ。
僕はそれに気づけなかった、気づいてやれなかった。
成二さんはあの焦げ跡から、自分が犯人だと僕に訴えかけていたというのに。
「成二さん……っ、連続殺人の殺人犯として逮捕します」
僕は腰の手錠に手を伸ばし、一歩彼に歩み寄った。
「なあ、洋介」
「はい?」
「俺は今、どんなささやきを聞いていると思う?」
「え? ……まさかっ!」
僕がそのことに気づいて走り出したときには、もう遅かった。
「次に死ぬのは俺だそうだ」
彼は柵を乗り越え、その向こう側へ下り立つ。
「新垣さんっ! やめてくださいっ!!」
「死んじゃ駄目だっ! 成二さんっ!!」
僕らの方を向いたまま、空を仰ぎ見るようにして、彼は後ろに倒れていった。
僕が柵から体を乗り出して下を覗いたときには、彼はすでに地面に到達し、アスファルトに赤い血が広がってゆくところだった。
北山さんはその場に崩れ、声を上げて泣いた。僕は彼を最後の最後まで止められなかったことをひたすらに悔やんだ。
成二さんが最後に見た曇天の空を見上げる。
鼻先に水滴が落ちた。
雨足はすぐに強まり、成二さんの血を洗い流す。
下での騒ぎ声が屋上まで聞こえた。
僕らはあまりにも無力だった。
「今年の冬は、雨が多いですよね」
これが誰に向けての呟きかはわからない。僕の顔を濡らす雨水が涙と混じった。
冷たい雨は止めどなく僕らを濡らし、未熟者を戒めた。
成二さんの死。被疑者死亡によってこの事件は収束することになる。
この雨の冷たさを生涯忘れまいと、僕は思った。