大事な話
僕はグラスに注がれた烏龍茶を一口飲んだ。
四人掛けのテーブル席は区切られていて個室のようになっている。店内には聴いたこともないようなジャズのBGMが会話の邪魔にならない程度で流れていた。
他にも間接照明とか、用途の不明なインテリアとか。
つまり僕が言いたいことはただ一つ。
とにかくこのお店、すっごいお洒落!!
もちろんこんな店に自分から足を運ぶはずもない。成二さんに誘われて来たのだった。
なのにその成二さんはいまだに来ず、予約してあるから先に入っててくれ、なんて言われてもどうしていいのかさっぱりわからない。
お洒落なお店にはそれなりの作法とかがあるのだろうか?
僕一人ならまだよかったのだが。
「あの、北山さん。なにか頼む?」
「いえ、私も烏龍茶だけで大丈夫です」
「そ、そう」
僕の隣には北山さんがいた。
お洒落なお店で隣に美人。僕のキャパシティなんて余裕でオーバーしてる。
早く来てくれ、成二さーん!
「そ、そういえば、今日の犯人、自白したみたいだね」
「らしいですね。病院の医院長の娘さんとの浮気がバレて脅されてたとか。そんなことで人を殺すなんて馬鹿げています」
「そうだね、馬鹿げてる」
もし僕が警視監の娘である北山さんに手を出しても、浮気にはならないからいいのかなぁなんて考える。そんな度胸もないくせに。
「あの、先輩」
「は、はひ?」
変なことを考えているのがバレたのかと思って声が裏返ってしまった。
「どうしたんですか? 変な声出して」
彼女は訝しげな表情をする。
「いや、なんでもないよ。それで?」
「えーと、あの、私までお呼ばれに甘えてしまって良かったのかな、なんて思いまして」
事件のあと、僕と北山さんは成二さんから晩ご飯に誘われた。それも、大事な話があるとかで。
「先輩は新垣さんと親しい間柄のようですし、大事な話があるっていうのもわかります。しかし、私は今日初めて会ったばかりで……」
「まあ、いいんじゃない? その成二さんが誘ったわけだし。それに大事な話なんて、僕ですら一度も聞いたことないよ」
「……え?」
そもそもあの成二さんが、そんな真面目くさった話をするとは到底思えない。
「何なんだろうね、大事な話って……」
「……」
結局のところ成二さんが来ないことには何もわからないのだ。
約束の時間から15分は経った。
本当に何をしているのだ成二さんは、恋人でもない男女がこんなお洒落な店で。しかも横並びだなんて!
早く来てくれないと僕の精神がどうにかなっちゃいそうだ。
僕たちの間に気まずい時間が流れる。
結局、成二さんがお店に来たのは、僕の人格を形成する組織が少しだけ変わりつつあった頃。約束の30分後のことだった。
「待たせたな、愛しの部下たち!」
「愛しいなら待たせないでくださいよ」
けらけらと笑って来た成二さんの後ろから女性が現れた。
「ごめんなさいね。わたしがお化粧に手間取っちゃって遅れちゃった」
いつものことだろ? と成二さんが言うが、そんなの耳に入らない程に僕は驚いていた。
「えっ、夏紀さん!? お、お久し振りです!」
「久しぶりですね、洋介くん」
現れたのは新垣夏紀さん、成二さんの奥さんだった。
□□□□□□□□□□
僕と北山さんの向かいに新垣夫婦は並んで座った。
「なんだ? お前ら烏龍茶しか飲んでないのか?」
成二さんはすぐに店員を呼び、ビールと料理をいくつか注文する。
「今日は俺の奢りなんだから遠慮するなよ」
「は、はい、ありがとうございます」
僕らは軽く頭を下げた。
「それにしても久しぶりね、洋介くん。半年くらい会ってないかしら」
「そうですね、お二人の結婚式以来かと。それ以前は何度かご一緒にお食事させてもらったのですが」
「それ、なぜだかわかる?」
夏紀さんは悪戯っぽく笑う。
「え? なにか理由があったんですか?」
「ふふ、この人、わたしと二人っきりで食事するのが恥ずかしかったのよ」
「っな!? ち、違う。違うからな洋介ェ! ただ俺は部下に飯を奢りたかったからで……」
「はいはい、そんなこと言って、わたしにはバレバレでしたよ」
僕はそんな二人のやり取りを見て笑ってしまった。夫婦仲が良好のようでなによりだ。
隣を見ると北山さんも小さく笑っていた。
彼女の笑顔を見るのは今日の朝以来だなと思った。笑っている表情はやっぱり可愛い。
「それでそちらは……洋介くんの……彼女さん?」
夏紀さんの悪気のない発言が、この場を一瞬凍らせる。
「ち、ちが───」
「違いますよ!? 私たちはただの同僚です!」
僕の言葉を遮って北山さんが言う。
「そ、そうですよ。同僚です」
僕もそれに続いた。
北山さんの言う通り、僕たちはただの同僚だ。た、確かにそうなんだけど……そんなに必死で否定しなくても……。
始まってもいない恋が、終わってしまったような、そんな喪失感を僕は覚えた。
「そうだったの? ごめんなさいね」
「い、いえ、大丈夫です。改めまして、今年から捜査一課に配属されました、北山静樹です」
「静樹ちゃんね。わたしは新垣夏紀、よろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
夏紀さんの誤解も解け、お互いに挨拶も終わったところで、ビールや料理が運ばれてくる。
ふと見ると、夏紀はジンジャーエールだった。
「あれ? 夏紀さんジュースでいいんですか?」
「ああ、そのことなんだけどなぁ。今回お前たちを呼んだ理由、本題について話しておこう」
僕は夏紀さんに聞いたのに成二さんが答えてくる。
「本題? 大事な話ってやつですか?」
「そう、それだ」
成二さんは真剣な面持ちで僕らを見て、言葉を溜める。
「……夏紀に……赤ちゃんができた」
「……へ? お、おめでとうございます」
「お、おめでとうございます」
僕らは少し反応に遅れてしまった。
そんな僕らを見て夏紀さんは笑い、成二さんは怒った。
「なんだその反応は、赤ちゃんができたんだぞ! もっと驚けよ!」
「ごめんねぇ、産まれたならまだしも、まだ3ヶ月だからね。別におおごとにしなくていいってわたしは言ったんだけどね」
「俺の赤ちゃんができたんだ、おおごとだろう! 俺がお父さんになるんだそ!」
「だからって、洋介くんに知らせるのはともかく、初対面の静樹ちゃんが聞いても困っちゃうだけでしょ?」
二人が言い合っているのを聞いて、正直僕らは、
「……」
「……」
ぽかーんとしているだけだった。
「で、でもほんとに、おめでとうございます」
「お、おめでとうございます」
「ごめんねぇ、気を使わせちゃって。お詫びと言うと変だけど、ほんとに好きなもの食べていいからね」
そう言って、夏紀さんは頬を掻いた。
僕は赤ちゃんができたということを聞いて、自分一人だけ置いていかれたような感覚を感じていた。
もちろん夏紀さんに赤ちゃんができたことは喜ばしいことだ。
だけど知っている人が確かな変化をしていく中で、僕だけ何の変化もなしにダラダラと日々を過ごしているのだ。
そう思うと、変な焦りのようなものが心に蔓延るのだった。
いつの間に僕は時間の流れを忘れていたのだろう? 僕がどうであろうが、時間が止まってくれることなんてあるはずがないのに。
成二さんの乾杯の声が聞こえた。
僕はジョッキに注がれたビールを一気に飲み干した。
□□□□□□□□□□
北山さんと夏紀さんは同じ女性だからだろうか、すぐに打ち解け仲良くなっていった。
僕も久々に夏紀さんと一緒に食事をすることができてとても楽しめた。
今日のことをきっかけに、北山さんとは良好な関係で居続けていきたいと思う。も、もちろん、刑事の同僚として。
あと発見が一つ、北山さんはお酒に弱い。
「北山さん、北山さん起きて、もう帰るよ」
「うーん、いいよー」
「じゃあ寝てないで起きてよ」
僕は彼女の肩を揺すってみるが、一向に起きる気がない。
困っている僕に、成二さがへらへらと笑いながら言う。
「じゃあ、あとは洋介よろしく」
「え!? 成二さん、北山さんどうするんですか!」
「お前が送り届けてやれ、相棒だろ?」
「家知らないですよ」
「お前の家に泊めたら?」
「そんな!?」
助けを求めるように夏紀さんを見詰めるが、ふふっと笑ってレジへとお会計を済ませに行ってしまう。
「なあ洋介、今日なんでお前たちを呼んだか覚えてるか?」
夏紀さんがいなくなったとたんに、成二さんは急に真面目に話し出した。
「えっ? 大事な話があるから、と。赤ちゃんができたことの報告だったんですよね?」
「まあ、それもあったんだが、本当の理由は北山ちゃんだよ」
「え? 北山さん?」
僕はテーブルに突っ伏して眠る彼女を見た。彼女がどうかしたとでも言うのだろうか。
成二さんは僕に近寄って、ことさら声を小さくして言う。
「お前、初めて殺人事件を捜査したときのこと覚えているか?」
「そ、それはもちろん。捜査一課に配属されてすぐでしたから」
「で、どう感じた?」
「ど、どうって?」
「だから、人が死んでいるのを、殺された現場を初めて見て、どう感じたんだって聞いてるんだ」
成二さんの言いたいことがわからない。そんなことを聞いてどうなるんだ?
「そ、それは、気分のいいものではなかったですよ。ショックはかなり大きかったと思います」
「うん、だから今日一晩でいい。彼女の側にいてやれ」
「え? それってどういう……あっ……」
「思い出したか? この恩知らずめ」
「……はい、思い出しました」
そう、思い出した。初めての事件のあと、成二さんに飲みに連れていってもらったこと。なぜか僕の家に泊まってまで、一晩中一緒にいてくれたこと。
あのときは、とくに意味なんて考えていなかったけど、そういう意味があったのか……。
僕はもう一度、彼女の横顔を見る。
物怖じした様子も、取り乱したりしたようなこともまったくなかった。しかし、彼女だって今日が初めての事件現場だったのだ。
エリートだからって、僕より凄いからって、あんな場面に初めて遭遇して、何もかもがいつも通りなはずがない。
僕は馬鹿だった。先輩失格だった。
僕も通ったはずの道なのに、そんなことを忘れるなんて。
「成二さん、あとは任せてください」
成二さんは、ふんっと鼻で笑う。
「頑張れよ、先輩」
ぽんっと肩を叩かれる。その手はずっしりと重かった。
「あー、あとな……避妊はしとけよ」
にいっと笑った成二さんは余計な言葉を最後に残し、夏紀さんとともに帰っていった。
ふざけていると思っていたら、急に真面目になったり。真面目に聞いていたら、最後にからかったり。
でも、それをすべて含めて僕は彼を格好いいと思った。
「さぁほら、帰るよ北山さん」
「うーん……」
僕は北山さんに肩を貸して、ゆっくりゆっくり帰路に着く。
真冬の夜風が僕の肌を刺した。晴れた冬の夜はよりいっそう寒い。しかしそれが彼女の体温をより熱く感じさせた。
肩の辺りで切り揃えられた彼女の黒髪が、僕の頬をくすぐった。彼女はほのかに甘く薫った。
タクシーを止めると、二人して乗り込む。
彼女は僕のコートの裾を掴んで放さなかった。