その9
伯母たちが帰ったあと、美咲と大悟は母に連れられてそのまま近くのコンビニに向かった。姉は待合室の自動販売機でスポーツドリンクを二本買い、そのうちの一本を「はいよ」とこちらに渡すと、二階のベランダに私を誘った。
外に出ても風はなく、やかましいほどの蝉の声とともにじっとりとした不快な空気が体中にまとわりつく。
わたしたちはかろうじて日陰になっているベンチを選んで、どっかりと腰をおろした。
「ねえ、父さんの病状とか、聞いた?」
プルトップを開けながら姉が尋ねる。
「ううん、ちゃんとは……」
「やっぱりね。まあ、母さんのことだからそうじゃないかとは思ってたけどさ。昔からいっつも、肝心なところが抜けてるんだよね」
大げさにおどけた顔をしてみせた姉は大きなトートバッグをひざに乗せ、中からアニメのキャラクターがついたタオルのハンカチを取り出すと、汗ばんだおでこや首すじを押さえつけるように拭いた。
と、急にその手が止まった。
「あのね、これは本人には言ってないんだけど……父さんね、胃に、胃の上のほうに、癌ができてるんだって」
姉の声はいつもと違って低くかすれていた。
「うん」
驚きはしなかった。
なんとなくそんな予感はあったから。
傾き始めた日差しの照り返しは思ったよりきつく、鼻の上に汗のつぶが噴き出してくる。
「心配しなくて大丈夫。まだ初期だから、切っちゃえば治るらしいよ」
姉は自分に言い聞かせるかのように明るい声でそう言うと、スポーツドリンクをごくりとひとくち飲んでまぶしそうに空を仰いだ。
「ただ、術後の抗がん剤治療はけっこうきついらしい。あと、退院してからの食事とかはちょっと大変かもね。母さんは大雑把なところあるから、心配だなぁ」
確かに母は料理がおそろしく下手だった。大根の煮物はいつも固くガシガシしていたし、魚も焼き過ぎてしょっちゅう真っ黒焦げになっていた。
大学生で一人暮らしをはじめたとき、二十年以上のキャリアを持つ母よりも、初心者のわたしが本を見ながら作った料理のほうがよっぽどおいしいということに気づき、驚愕した覚えがある。
「ねえ、あんたさ、いつまでいられるの?」
「え? まあ、しばらくは大丈夫だけど……」
本当は、もうアパートなど引き払っていた。
でもまだそれを口にするのははばかられた。
「そっか。うちもいま、義父さんがあんまりよくなくてね。チビたちもいるし、そんなに頻繁には来れないと思うんだ。だから、少しの間でもゆっこがいてくれるなら、すごく安心だわ」
姉はそう言いながらベンチの背もたれによりかると、手を組んで大きく伸びをした。
「でもさ、正直、あんたは帰ってこないかもって思ってた」
「え?」
姉のことばにドキッとしながら、あいまいな笑みを浮かべる。
「だって、電話してもいっつも留守電だし、年賀状だって、一度も返事くれないしさ」
姉は笑いながら、けれども少しだけ恨みがましい声で言う。
その声を聞きながら思った。
きっとこの人にはわたしの気持ちは一生わからないだろう、と。
ひとりぐらしのアパートに毎年欠かさず送られてくる写真付きの年賀状。
結婚、出産、子どもたちの成長と、きれいな放物線を描く姉の幸せの形は、いつでもわたしの心をじりじりと痛めつけてきた。
「んー、そうだっけ」
わたしはそう言って、すっかり汗をかいたスポーツドリンクの缶を何度も指でなぞった。
「そうだっけじゃないよ。あ、そういえば忘れてた」
唐突に姉は、紙おむつや小さな絵本や着替えの詰まったトートバッグをかき回しはじめた。
「あった、これこれ。看病ってほんとに疲れるからさ、たまにはこっそりおいしいものでも食べな」
手渡されたのは、赤い縁取りの小さなポチ袋だった。
わたしはおし黙ったまま、その袋をじっと見つめる。
わかっている。
嬉しそうな表情をつくって「ありがとう」と言いさえすればいい。
それはただのお決まりのことば、どこまでが本心かなんて関係ないのだ。
わかっているのに、やっぱりわたしは戸惑い黙りこんでしまう。
姉はそんなわたしの反応にほんの一瞬だけ眉をひそめるとすぐさま鷹揚な笑顔に戻り、いいよいいよとでもいうように何度もおおげさにうなずいた。
家に帰ってポチ袋の中を見ると、姉らしい几帳面さできっちり三つに折りたたまれた五千円札が入っていた。
わたしはただ黙って、それをきつく握りつぶした。