その6
入り口の名札を何度も確認し、戸惑いながらそっと病室に足を踏み入れた。
と、次の瞬間、ベッドに起き上がってこちらを見ていた父といきなり目が合ってしまった。
「あ……えっと、帰ってきたから。そう、もう、帰ってきたからさ」
わたしはひどくうろたえて、裏返った声で何度も馬鹿みたいに繰り返した。
記憶の中の父は、いつも険しい表情で黙々と土にまみれて働いていた。
遊んでもらったことも、ひょっとしたらことばを交わしたことさえもほとんどなかったかもしれない。
その頃と変わらず眉間にしわを寄せ、かすかに目を伏せる父。
ぎくしゃくとした長い沈黙のあと、細く息を吐くみたいにわたしに問いかけた。
「仕事は……大丈夫なのか?」
「ああ、社長がね、親の病気ならすぐに行ってこいって。有給もずっと取ってなくて、ほら、あれも、あんまり取らないままだとまずいっていうから、ちょうどよかったんだ。あ、いや、入院がよかったってことじゃなくて……えっと、その……」
無理やり話し続けようとしたが、もう何を言っていいかわからない。
と、そのとき、
「井原さーん、検査でーす」
ナースの高らかな声が聞こえ、わたしは内心ほっと胸をなでおろした。
白いストッキングのむっちりした脚が、力強く床を踏みしめながらまっすぐ父に近づいてくる。
小柄でぽっちゃりとしたナースは、ベッドの横にいる私を見つけて、
「あらぁ、今日は奥さんじゃなくて娘さん? ふふ、いいわねぇ」
とふくよかなえくぼを見せた。
が、急に動きをとめて、まじまじとわたしの顔を見つめた。
「井原センセイ?」
わたしは驚き、思わず白衣の胸の名札を見た。
そこには、『早坂千尋』とあった。
早坂千尋、千尋……
「六年……三組?」
彼女はふっと口のはしで笑った。
「なんだ、井原さんって、センセイのお父さんだったんだ」
父が、困惑した表情で千尋を見た。
「ああ、わたしたち、同級生なんです。由希子さん、すっごく頭が良かったから、みんな『井原センセイ』って呼んでたんですよ。うふふ、懐かしいなぁ。
って、こんな話してる場合じゃなかったわ、井原さん、検査室に行きましょうね」
千尋のよく通る高い声が、次第に遠ざっていく。
わたしはよろよろとベッドの横のパイプ椅子に腰をおろし、こめかみを指でぎゅっと押さえた。
井原センセイ、もう掃除終わっていいですかぁ?
やめてよ、その呼び方。
なんで、別にいいじゃん、セ・ン・セ・イ。
おい、やめとけ。そういうこと言うと、また告げ口されるぞ。
あざけるような目つき、いじわるな笑い、ひそひそ話。
ぼんやりした記憶がゆっくりと形を取り戻しはじめ、わたしは軽い吐き気を感じた。
しばらく頭を押さえていると、視界の端で何かが動いた気がした。
顔をあげると、病室の入り口からピンクのTシャツを着た小太りの女の子がじっとこちらを見ている。
誰かのお見舞いだろうか。
そう思いつつ、ぶしつけで固く真っ直ぐな視線からさりげなく目をそらす。
「大悟、もう自分で歩こうか。こら、美咲、勝手に行かないの」
少女の背後から聞こえるその声には聞きおぼえがあった。
片手で小さな男の子の手を引き、もう片方の手でキルティングの大きなトートバッグを抱えて入ってきたのは、姉の亜希子だった。