その45
どこをどう帰ってきたのかわからないまま、気がつくと自分のベッドの中にいた。
頭の中では、たった今耳にした会話がぐるぐると回り続けている。
ベッドの上のありったけの寝具をかき集めるとその中に体を埋め、胎児のように膝を抱えて丸まった。
ふかふかの布団。そして、もこもこの毛布。
彼の声、彼の唇、そして笑顔。
なにもかも、失うのだ。
彼はこの町を出て行ってしまう。
熱い涙が幾筋も頬を伝う。
このまま、溶けてなくなってしまいたい。
何の意識も残らず、丸ごと消えてしまいたい。
そう念じながら、いつまでもひっくひっくと泣き続けた。
しかしそんなわたしの苦しみなんかには少しも関係なく夜は更け、いつもと変わらない朝が来る。
違っていたのは、夜が明けたとわかった瞬間に知らず涙があふれてきたことだった。
どうして目が覚めてしまったんだろう。
どうしてまだ生きているんだろう。
よそよそしいほどに白く四角い天井が、にじんで形を歪めていく。
せめて家のことだけはきちんとやらなければ。
何度も自分を奮い立たせようとしたが、いくらがんばっても世界はのっぺりとした灰色の泥の塊のままで、どうしてもベッドから起き上がれない。
昼近くになり、ふらついた足取りでやっと部屋から這い出していくと、仏壇にはきちんとご飯が供えられていた。
四角い写真におさめられた母は、見たこともないほど穏やかに微笑んでいる。
本物がここにいたら『こんな時間まで寝てたんじゃ、しょうがねえな』とひとしきり毒を吐いたことだろう。
けれどもう二度と、あのきつい物言いを聞くことはないのだ。
重い体をひきずるようにして呆けた頭で台所に立ち、お昼の用意をはじめた。残っていた野菜を刻み、うどんと一緒にくたくたになるまで煮込む。
昼を知らせるサイレンが鳴ると、父はいつものように黙ったまま食卓につき、寝坊したわたしに何を言うでもなく難しい顔のまま食事に箸をつけた。
わずかな量をゆっくりと時間をかけて咀嚼した父は、最後は顔をしかめて「もういいや」とだけ言い、席を立つ。
わたしは黙ってどんぶりに残ったうどんを捨てた。
次の日も、その次の日もわたしは昼近くまで起き出すことができなかった。
掃除も洗濯もたまる一方なのに父は何も言わない。
そのことが、ますますわたしを追い詰めていった。




