その43
年の瀬が近付いてくる。
小さな町にもその慌ただしさはきちんとやってきて、わたしの心をひどく落ち着かなくさせた。
穏やかに晴れた風のないその日、わたしはいつものように淡々と父と昼食を済ませると、庭いっぱいに干した布団を裏返して家に入ろうとした。
「センセイ、元気?」
突然背後から明るい声が聞こえた。
振り向くと、門の横に千尋が立っていた。
小柄だが張りのある体を黒いジャケットに包み、めずらしく地味な色の唇でにっこりと微笑んでいる。
「今日ね、久しぶりに非番なのよ。ほら、天気がいいからさ、散歩してたらたまたま近く通ったから」
「そっか……」
「ね、ついでで悪いんだけどさ、お線香あげさせてもらってもいい?」
何気なさを装いながら彼女は言った。
「うん……ありがとう」
仏間に父の姿はなかった。
おそらく奥の寝室で横になっているのだろう。
ジャケットを脱ぎ、白いセーター姿で正座して神妙に手を合わせる千尋の向こう側で、ゆらゆらとたなびく線香の煙。
ぼんやりと目で追ううちに、立ちこめる紫煙と香ばしいタバコの匂いを思い出し、涙ぐむ。
「ずいぶんしけた顔してるじゃない」
こちらに向き直った千尋が、からかうように言った。
あわてて目をそらす。
「お父さんの経過は順調だから、心配いらないわよ」
「……うん」
そう答えながら鼻をすすり、急須を傾けて客用の湯飲みにゆっくりとお茶を注ぐ。じんわりと立ち上る湯気に目が潤む。
「どうやら問題は、あんたのほうね」
千尋はわたしの鼻先に人差し指を突き立て、じろりと上目遣いで睨んだ。
「ちゃんと、連絡とってるの?」
ドキッとして千尋の顔を見る。
「あれ、もしかして、あいつのおばあちゃんが退院したのも知らない?」
「え? い、いつ?」
千尋はやれやれという顔をして、小さく肩をすくめた。
「もう、ひと月になるかな」
わたしはハッとした。
ひと月前と言えば、ちょうど電話がかからなくなった頃だ。
千尋はお茶をごくりとひと口飲んでから続けた。
「じゃあさ、ばあちゃんが入院中に呆けてきてたの、聞いてる?」
「え?」
そういえば何度か、自分のことを父親の名前で呼んだり、ご飯食べたばかりなのにお昼はまだかって聞かれたという話をしていた。
『いよいよきたかなって、ちょっとドキッとするんだ』そう言いながらあっけらかんと笑っていた北川君。だからまったくと言っていいほど、深刻な状況など想像していなかった。
「うち、近所だからね、いろんな話が入ってくるのよ。
骨折が治って歩けるようになったのはいいんだけど、今度は元気になりすぎて、ちょっと目を離すとすぐいなくなっちゃうんだって。
で、北川君しょっちゅう探しまわってるらしいわ」
「そんな……」
わたしは絶句した。
「あれ、やっぱり心配なんだ?」
彼女の目にちらりと意地悪な色が浮かぶ。
「そ、そんな言い方」
千尋はふっと鼻で笑った。
「気になるなら、自分で様子見に行ってみたらいいんじゃない」
「でも、そんな状況だったら、かえって迷惑じゃ……」
口ごもるわたしを彼女はキッと睨みつけた。
「逆でしょ。この状況になってね、あんたに連絡したら迷惑かけると思ってんのは、たぶんあいつのほうよ。わかるでしょ。
だからさ、あんたから行かなきゃ、もう本当にこのまま終わっちゃうわよ」
そう言って千尋は縞模様の湯飲み茶碗をぐっとつかみ、残っていたお茶を一気に飲み干した。
「センセイの家、いいお茶っ葉使ってるじゃない。もう一杯いれてくれる?」




