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その42

 北川君から電話があったのは、母の死から三週間ほど経ったころのことだった。


 夕飯後の片付けも入浴も済ませ、わたしは離れにぼんやりと座り込んでいた。

 と、ドアをノックする音がした。


「ゆっこ、北川って人から、電話だ」


 その声に、父はあのときの逢い引きの相手がこの男だと気づいている、そう感じた。



「……もう寝てるって、言って」


「言ったんだけどな、どうしても起こしてくれってよ」


「いいから。いくら呼んでも起きないって言っといて」


「……わかった」


 父の足音が静かに遠ざかっていく。





 あの夜、二度と彼と離れたくないと思った気持ちは、そっくりそのまま自分自身を責める声に置き替わってしまった。


 親が死んだときに、こっそり男と会ってたなんて。

 親が死んだばかりなのに、その男からまた電話がくるなんて。


 父がそんな風に言ったわけではない。

 でも、わたしの頭の中には繰り返しそんな声が聞こえてきてしまう。





 陽の光が少しずつ弱くなり、裏庭のケヤキの枝が高くなった空をくっきりと切り取りはじめる。掃いても掃いても終わりがないように思えた落ち葉の乱舞も、すっかりなりをひそめた。


 知らん顔でゆっくりと季節は移ろっていく。

 もてあましたままの心を置き去りにして。



 電話の呼び出し音がするたびに、庭箒を持ってこっそりと裏庭に逃げた。

 呼びに来る父の顔で、受話器の向こうにいるのが誰なのかはすぐにわかる。


 わたしは目を伏せ、唸るように首を横に振る。

 父はそれ以上問いただすこともなく、電話の相手に「今、出かけてるんですが」とだけ告げてそっと受話器を置く。

 その音を背中に聞きながら急いで離れへと駆け込み、小さく膝を抱えて目を閉じ耳をふさぐ。


 わかっている。

 こんな風にしていたら、彼のことだ、いずれはここにやってくるに違いない。


 そのとき父はいったいどんな顔をするのだろうか。

 わたしはどんな風に振舞うのだろうか。


 そもそもわたしはその事態を、恐れているのか待ち望んでいるのか。





 が、いくら待っても彼は姿を見せることなく、頻繁にかかっていた電話も三日おきに、そして週に一度となり、やがてぷつりと途絶えてしまった。




 玄関の掃除を終えて裏庭に出てみると、すっかり葉を落としたケヤキの木が寒空に向かって両手を広げていた。

 足の下で落ち葉がカサカサと音を立て、ふいに涙がこみあげる。



 ――わたしが希望だと、たったひとつの救いだと言ったくせに。



 自分が電話に出ようとしなかったのに、捨てられたような惨めな寂しさにずぶずぶと深く沈んでいく。

 そうして心がくぐもって行けばいくほどに、わたしは何かにとりつかれたかのように休む間もなく動き続けた。


 毎日朝早くから米を研ぎ、ボロ雑巾を絞っては家中を磨き上げ、不用品を整理し、法要の準備をする。


 どこに向かって走っているのかわからない。

 けれど、走るのをやめた瞬間に何もかもが壊れてしまうことだけは、肌が粟立つほど確信していた。




 やがて四十九日の法要が終わると、まるでそれが合図であったかのように季節は一気に冬に向かって舵を切りはじめた。 


 寒さはますます厳しくなっていく。

 庭いっぱいに広げた竿に洗濯物を干すたび、かじかんだ手を足に挟んで温めずにはいられない。


 ひと月もすれば、竿に干したタオルが凍るようになるだろう。

 霜柱は力強く地面を持ち上げ、庭の桶に溜まった雨水には厚い氷が張るだろう。


 長く辛い冬が始まる兆しに、わたしは固く怯えた。

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