その41
通夜も告別式も、冷たい雨だった。
わたしの喪服は、父の手術前に無理やり母に連れられ買いそろえたものだった。
こんなときに縁起が悪いと文句を言うわたしに、
「バカだね、こんなときだからだよ。
おまえどうせ、ちゃんとしたのなんか持ってないんだろ?
ゆっこぐらいの年になればな、こういうのはいつ必要になるかわかんないんだから、いざというときに困らないようにしとかないとダメなんだよ」
勝ち誇ったようにそう言って、わたしには絶対に手が出せないような値段の黒のアンサンブルとコートと靴とバッグ、そしてパールのネックレスまでそろえてくれた。
「こういうワンピースなら、いくら太ったり痩せたりしても着れるだろ」
そう言ってご満悦だった母。
コートまで用意してくれた母の読みは、確かだった。
ただ、まさか自分の葬式がそのお披露目になるとは、さすがに思ってもみなかっただろう。
「バカはそっちじゃない」
こっそりつぶやいてみたけれど、きつい口調で言い返す母は、もういない。
癌の手術自体は成功だと聞いていた。
だが術後二週間たって、それとは別に脳出血を起こしたのだ、と医者は説明した。
「あの人のことだからよ、リハビリ頑張りすぎたんじゃねえか」
「抗がん剤は血管が弱くなるっていうからな。そこんところで力み過ぎて、血圧上がっちまったのかねえ」
医者は断定しなかったけれども、周囲はみなそんな風に推測し合った。
父も姉も、ひと言もわたしを責めたりしなかった。
なのにわたしにはどうしても、何もかもが自分のせいであるとしか思えなかった。
家のことも父さんの世話もわたしには安心して任せられないから、母さんは少しでも早く帰ろうと必死だったのだ。
実際あのときだって、家のことを何もかも放り出して男と夜遊びしていたではないか。
火葬場の煙突から立ち上る煙を眺めながらそんなことを考えていたら、涙が止まらなくなった。
「どうしても焼かなきゃダメ? このままずっと、冷凍保存しておいちゃダメかな?」
そう言って泣き続けるわたしを見て、姉も一緒にびしょびしょと泣いた。
葬儀が終わって二人だけのポカンとした生活が始まっても、父はあの夜わたしがいなかったことに触れようとはしなかった。
そのことが、よけいにわたしを苦しくさせた。
炊きあがったばかりのご飯が、ほわほわと温かい湯気を立てている。しゃもじで十字に線を入れ、真ん中をそっとすくって、青い小花模様の茶碗に丁寧によそう。
静まり返った家の中に、控えめな仏壇のリンの音が響く。
目を閉じ、写真の母にそっと手を合わせながら、背中に痛々しい父の視線を感じる。
毎朝供える炊きたてのご飯。
当たり前のこの行為でさえ、父を苦しめているのかもしれない。
昨夜も押し殺したような泣き声が、母屋から漏れ聞こえてきた。
朝食は、お粥と豆腐の味噌汁、ひき割り納豆に大根おろし。
父は美味しいとも不味いとも言わず、修行僧のようにわたしの用意した料理を口に運ぶ。
「……四十九日には、形見分けもしないとな」
父がぼそりとつぶやくのを聞き、わたしは母の遺品を整理し始めた。
高そうなものなど何もなかったが、古い桐のタンスには、若いころの着物や婦人会の盆踊りで着た浴衣、おしゃれな柄のブラウスや明るい色のカーディガンが、シワひとつなく綺麗にたたまれて入っていた。
『服はな、こうやってすっぺらとたたむんだ』
いつもそう言ってどんな服もうやうやしく扱っていた母の姿が目に浮かぶ。
そのくせ二つのタンスの隙間にスーパーの袋やチラシや紙袋がぐちゃぐちゃに押し込まれているのが、いかにも母らしかった。
神経質なほどにこだわる部分とひどく無頓着なところ。
その境界線がいったいどこに引かれているのかは最後までわからないままで、そのわからなさがいつもわたしたちのいさかいの原因だった。
ボロボロと出てくる明らかな不用品を大きなゴミ袋に放り込んでいると、父が泣きそうな顔で、
「なんだ、それも捨てちゃうのか」
とつぶやき、その夜中にはまた仏間からすすり泣く声が聞こえた。
片付けてほしいのかそのままにしてほしいのか、何が大切で何がいらないものなのか皆目見当がつかず、わたしはたびたび途方に暮れた。
それでも次の朝にはやはり六時に目を覚まし、軍隊のように布団をたたんで身支度をすると、炊きたてのご飯を供えて家中の雑巾がけをした。




