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その4

 目を開けると、部屋の中はすっかり薄暗くなっていた。


 体を起こそうとしたが、思うように力が入らない。

 ぼんやりした頭でゆっくりと記憶をたどる。


 トイレのドアは開きっぱなしで、まだかすかにと吐しゃ物のにおいがする。

 つーんと鼻をつく刺激にさらされているうちに、徐々に数時間前の光景がよみがえってきた。抗いようもなく体中を埋め尽くした強烈な悪寒を思い出すだけで、ぞわぞわと鳥肌が立ってくる。


 あんな苦しみはもうたくさんだ。


 吐き捨てるようにそう思ってしまった瞬間、ああ、わたしはもう死ぬことなんかできないという痛い確信が腹の底にすとんと落ちてきた。



 美しい快楽と思っていた死は、実際に近づいて手に取って見ると、夢見ていたよりもずっと醜く生々しい苦痛に満ちていた。


 死にたいって?

 思うに任せない人生から逃げ出したかっただけじゃないか。


 そうして終わらせたかった現実は、結局一ミリも変わらないままのうのうと目の前に横たわっている。



 ――井原さんったら、もう、なにやってるのよ。


 さげすむような目、嘲笑。

 うんざりとした声、舌打ち。

 自分の何がいけないのかさえ理解できないいたたまれなさ。


 死ぬことすらできなかったわたしは、これからもそんな惨めな姿のままで存在し続けなければならないということか。


「ふ、ふふ……」


 笑い声とも泣き声ともつかないものが、知らずに口元から漏れてきた。




 と、白いカラーボックスの上で電話が鳴りだした。

 はじかれたように目をやると、そこに表示されていたのは慣れ親しんだ忌々しい番号。


 体を強張らせながら、恐る恐る手を伸ばす。



『ゆっこか? 留守電聞いてないのか』


 キンキンと受話器から聞こえてきたのは、怒ったような母の声だった。


『まったく、電話しろって入れといたのによ』


 見ると、確かにランプが点滅していた。


 わたしは心の芯が冷え冷えと凍りつくのを感じながら受話器をきつく握り、やっとの思いで声を絞り出す。


「ちょっと……バタバタしてたから」


 が、母はわたしのことばなどまったく意に介さぬように話し続けた。


『なんだよ、帰ってこれるんだろ』


「え?」


『父ちゃんの手術よ』


「なに、それ」


『ほれ、来週入院するだろ? 父ちゃんが、どうしてもゆっこも呼べってよ。なんだかなぁ、あっこなら役に立つけどよ、ゆっこが来たってしょうがねぇのにな』


 嘲笑うかのような口ぶりに、体のあちこちで小さな爆発が起きる。

 叫びださないように、受話器を持つ手をもうひとつの手でぎゅっと押さえ込んだ。


「入院って……聞いてない」


『そうだったか? とにかくもう、こっちはひとりじゃ忙しくてたまんねえんだ。畑も放っておくわけにはいかねえし。まあ、できるだけ早く帰ってこいな』


 一方的にそう言うと、電話は唐突に切られた。

 わたしは置いてきぼりをくらった子どもみたいに、ツーツーと単調な音だけが聞こえてくる受話器を呆然と見つめた。


 入院、手術? 


 不安と怒りが渦を巻いてふくれあがっていく。


 突然そんなこと言われたって――こっちにはこっちの都合がある。


 そう思って、はっとした。


 そんなもの、もう何もないのだ。

 それどころか、明日にも住むところを失うかもしれない。


 かろうじて保っていたはずの足元がガラガラと音を立てて崩れていくようだった。

 洗濯機の中に放り込まれているように何もかもが混沌と回り始める。


 わたしは暗い部屋の隅っこで、思わず膝をギュッと抱えた。

 自分の体がちゃんとここにあって、まだ生きていることを確かめるみたいに。



 そのとき突然、台所の窓の向こうがパッと明るくなった。

 陽が落ちて、アパートの通路に明りが灯る時間だった。


 となりの部屋からはトントンと包丁の音がして、だし汁とごはんの炊けるいい匂いが漂ってくる。

 どうやら赤ん坊が泣きだしたようだ。

 慌ててあやそうとする若い母親の声が聞こえてくる。


 ――できるだけ早く帰ってこいな。


 母のことばが、耳の奥に残る。




 ふと気がつくとわたしは、赤子のように丸まったままひっそりと声を立てずに泣いていた。

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