その39
長い長い時間が経った気がした。
ふと気づくと、彼の肩が小刻みに震えていた。
そしてふわりと髪が揺れたかと思うと、その手がわたしの頬にすっと伸びてきた。
「……ありがとう、打ち明けてくれて。そんなこと言うの……辛かったでしょう?」
絞り出すような声で彼は言った。
思わず目を見開いたわたしの濡れた頬を、長い指がゆっくりとなぞる。
彼の瞳もまた真っ赤に潤んでいた。
熱を帯びたまぶたに柔らかな唇がそっと押しあてられ、風船がしぼむみたいに体中の力が抜けていく。
わたしは、生きている彼の温もりを確かめながらそっと目を閉じた。
そして、彼のシャツに染み込んだ香ばしいタバコの匂いを、深く深く吸い込んだ。
「軽蔑……しないの?」
鼻をすすり続ける彼に、わたしは恐る恐る尋ねた。
「しないよ。ただ……」
「ただ?」
「そのことを口にするのにどんなに勇気がいっただろうって、そう思ったら……」
北川君はそう言って、恥ずかしそうに指先で目頭をおさえた。
「……どうして?」
「どうして? だって……あなたの中では、もう終わったことなんでしょう? それとも……その相手にまだ気持ちが残ってる?」
びっくりしてわたしは首を横に振る。
「それは、絶対ない」
「誓える?」
そう言って彼は、わたしの目を真っ直ぐにのぞきこんだ。
わたしも目をそらすことなく、強く言い切った。
「誓える」
彼がふっと笑顔になる。
「わかった、信じる。それだったら、いいよ」
そう言って、わたしの頭を何度もくしゃくしゃと撫でた。
そうしながら、その目のふちがまたふっと赤らんだ。
「もしかしたら、ゆっこちゃんには想像もつかないかもしれないけど……僕はね、ずっと、嘘に囲まれて生きてきたんだ。あの家は、言い訳とごまかしと嘘ばっかりだったからね」
その声には、怒りとも寂しさともつかないものがにじんでいた。
「知ってる? 嘘はね、増殖するんだよ。
一度嘘をつくと、それを隠すための嘘をまたつかなきゃいけなくなる。その嘘がまた別の嘘を生む。そうやっていつの間にか、何もかもが偽りだらけになっていく。
でもね、たいていの人間は平気で嘘をつくんだ。少なくとも、僕のまわりにいた人間たちはみんなそうだった。
だから僕は誰も信じなかったし、これからも誰も信じないまま生きていくつもりだった」
彼はわたしの瞳を、じっと見据えた。
「あなたに会うまではね」
彼の背中越しに、またひとつ星が流れていく。
「ねえ、わかるかな。あなたが僕にとって、どれほどの希望なのか。
あなたは嘘をつかない。ううん、きっと、嘘がつけないんだ。その人並みはずれた真っ直ぐさのせいで、こんなにも苦しんできたというのに。
でもね、それはあなた自身にとっては呪縛なのかもしれないけれど、僕みたいな人間にとっては……たったひとつの、救いなんだよ」
そのことばにハッとして、わたしはもう一度彼を見つめた。
「少なくとも僕はね、あなたのことだけは、信じられる」
彼の瞳が、泣きそうに優しい光を帯びている。
「ゆっこちゃん」
「はい」
「あなたに出会えて……本当によかった」
彼はごつごつした長い指でわたしの手をとり、頬に押し当てた。
「ううん、わたしこそ、わたしのほうこそ……」
あとはもうことばにならなかった。
わたしはそっと手をほどき、両腕で彼の頭を抱きしめた。
この人は今まで、どれほどの孤独と苦しみを抱えてきたのだろう。
わたしはその柔らかな髪を何度も何度も撫で、掻き抱くようにまぶたに口づけをした。そして耳元に、頬に、首筋に、唇に、彼を形作る何もかもに、唇を寄せた。
二人の魂が震えながらひとつになっていく。
離れたくない、もう二度と。
きらきらと降りしきるたくさんの星に見守られながら、その日わたしは彼の腕の中で朝を迎えた。




