その38
長い長い接吻の後、わたしたちは強い磁石のようにぴたりと抱き合った。
まるで互いを決して失うまいとするかのように。
二人の心臓の鼓動がゆっくり重なっていく。
「あ、流れ星」
北川君が、はじかれたように東の空を指さした。
彼が目にしたものを確かめたくて身をよじり振りかえってみたが、その光はとうに見えない。ふと、二人の視線が絡み合い、わたしたちは何とはなしに笑いながら、額をくっつけ合った。
そこには、甘い秘密を共有したものだけが持ちうるひそやかな喜びがあった。
「ね、今度見つけたら、何をお願いする?」
「え……と」
この幸せがずっと続きますように。
そう口にしようとした瞬間、不意に怖くなった。
胸の奥で、もうひとりの自分がささやく。
こんなことがずっと続くわけがない、と。
わかっているのか、これ以上欲張ったりしたら、この大切な思い出さえも失ってしまうかもしれないのだ。
だったらその前に、そっと後ずさりして小さな殻に閉じこもり、ただひとり自分自身を憐れみながら生きていけばいい。
今までだって、ずっとそうしてきたではないか。
「何、考えてるの?」
その思考を遮ったいつになく鋭い彼の口調に、わたしはひどくうろたえた。
「べ、べつに……ただちょっと、ぼんやりしてただけ」
口ごもりながら、あわてて言い訳をする。
「ホントに?」
そう言って彼は、わたしの顔を真っ直ぐのぞきこむ。
わたしは頬をひきつらせ、ぎくしゃくと彼から視線を逸らそうとした。
が、彼は両手でわたしの頬をそっと挟み込み、顔を近付けてくる。
「こら。今、頭に浮かんでること、言ってごらん」
ふざけたような表情を作っていても、眼だけはひどく真剣だ。
誰にも見せたことのない心の深い部分。
そこに踏み込もうとするさりげない強引さは、けれど不思議と心地よいものだった。
心の中を力強くまさぐられるたび、ゆっくりと何かが溶けていく。
本当はずっと、こんな風にわたしという存在に足を踏み入れてくれる人を、待ちわびていたのかもしれない。
そのとき、すっと目の端を小さな光が落ちて行った。
流れ星。
ああ、この人を、失いたくない。
強い想いが、胸に広がっていく。
わたしは祈るような気持ちで、暗い夜空を見上げた。
「……ねえ、聞いていいかな。北川君から見たあの頃のわたしって、どんな感じなの?」
「あの頃って、小六の?」
「そう」
「そうだな……まず頭がよくて、何でもできて、曲がったことが大嫌いで、ちょっと頑固で……でもね、いつも、ひどく辛そうに見えた」
不意に胸を衝かれた気がした。
「ふふ、やっぱり北川君には、隠し事なんかできないや」
わたしはぽつりとつぶやいた。
「え?」
「北川君ならわかるよね? ちゃんと学校に行ってて、テストの点がよくて、何も問題を起こさなければ、それだけで大人は、その子は大丈夫だって思うの。
先生も親も、わたしが最後までクラスになじめなかったとか、死にたいほど思い詰めてたとか、これっぽっちも気づいてなかったと思う。
毎日毎日、カッターナイフ眺めてたり、雪の中で凍死したら楽かな、とか、睡眠薬ってどうやったら買えるのかな、とか、そんなことばっかり考えて過ごしてたのにね」
地面に落ちた枯れ葉をつま先でもてあそびながら、わたしはひっそりと笑った。
「……一度だけね、母に『学校に行きたくない』って言ったことがあるの。心臓が破裂するんじゃないかと思うくらいものすごい勇気を振り絞ってね。でもそれを聞いた母は……」
ふいに何かがこみあげてきて、ことばに詰まった。
「お母さん、なんて言ったの?」
「『そんなに親を困らせたいのか、おまえには何も不自由させたことないのに、一体何が不満なんだ』って。ふふ、笑っちゃうでしょ?」
思い出すだけで、鼻の奥がつうんと痛くなってくる。
北川君はただ黙って、わたしの指をぎゅっと握ってくれた。
「だからわたし、勉強したよ。だってもう、それしかしがみつくものなかったんだもの。いい高校入って、いい大学入って、いい企業に入社して……。
なんでだろうね、ずっと死にたいと思ってたくせに、優等生のレールからはずれることができなかった。そこを下りるときが死ぬときだって、わかってたのかなあ」
北川君は少しも表情を変えず、わたしの話に耳を傾けている。
「でも結局、一年も、続かなかったの。次の会社も……三か月でやめちゃった」
「……やめた理由、聞いてもいい?」
そう問いかける彼の声に、少しも責めるような響きはなかった。
「うん……最初のきっかけは、新入社員の歓迎会かな。出身大学の話になってね。で、『君、頭いいんだね』って言われたから、『はい』って答えたの。
自慢するとか見下すとかそんなつもりは全然なくて、ただ事実としてそういうことになるんだろうって、そう思ったのね。
でも、翌日から、みんなの態度が変わったのがわかった。
ミスするたびに、『頭いいのにね』って言われて、ランチを断ったら、『私たちみたいなバカとは話が合わないんでしょ』って……」
彼は黙ったまま、少しだけ悲しそうな顔になる。
「正直いうとね、今でも何がいけなかったのか、よくわからない。
きっとわたしこそ本当のバカなんだよね、気がつくといつもみんなの輪からはずれてるの。
どこにいても、自分がそこにいるのがひどく場違いに思えてしょうがない。
ただ苦しくて、消えてしまいたくなって。
それでいつも……逃げ出してしまうの」
ことばにするたびにそのときの気持ちが蘇り、胸に鋭い痛みが走る。
あとからあとからポロポロとこぼれる涙。
「この世界にはもう、逃げる場所なんて残ってないのに」
「ゆっこちゃん」
北川君は、震えるわたしの肩を何度も何度も撫でさすった。
「ゆっこちゃんはバカなんかじゃない、全然バカなんかじゃないよ」
必死に言い募る彼のようすに、また涙が溢れそうになる。
わたしは祈るようにぎゅっと目を閉じ、覚悟を決めて口を開いた。
「……北川君に、話さなきゃいけないことがあるの。
聞いたらわたしのこと、嫌いになるかもしれない。
でも、どうしても話しておかなきゃいけないことなの」
自分の声がかすかに震えているのがわかる。
「いいよ、言ってみて」
「わたし、わたしね……そうやっていろんな場所から逃げて、何度も逃げて……」
北川君がごくりと唾を飲み込む音が聞こえた気がした。
「最後は、男の人に、面倒見てもらってたの」
「面倒って……」
抑えようもなく、頬を熱い涙が幾筋も伝う。
「たぶん、北川君が考えてる通りのこと……」
彼は一瞬息をのみ、表情を固くしたまま動かなくなった。
その姿に、わたしはすべての終わりを覚悟した。
ああ、これでまた、すべてを失うのだ。
半身が引きちぎられるような、耐えがたい痛み。
いくら歯を食いしばっても、あとからあとから涙が溢れ続ける。
けれども不思議と、心はどこか晴れやかでもあった。
ほんの短い間だったけれど、今まで知らなかったたくさんの気持ちを味あわせてもらった。そして最後まで、自分を偽らずにいられた。
それだけで、充分だと思えた。




