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その37

 夕飯の片づけを終えて風呂に入り、庭を横切って小さな離れに向かう。

 そもそもは姉の受験のために建てられたプレハブ小屋がわたしの城だ。


 身支度を整え再び外に出ると、音が出ないように用心しながらノブを回してゆっくりと鍵を閉める。

 忍び足で門に向かう途中、玄関の前で耳を澄ませた。



 大丈夫、何の音も聞こえてこない。


 父は夕飯を終えるとすぐに奥の寝室に引っ込んでしまうのだ。



 でも、万が一見つかったら?


 そう考えている自分に気づき、ハッとした。

 この年になってもわたしは、親を恐れている。

 失望され、今度こそ本当に見捨てられるのではないかと怯え続けているのだ。


 でも今は、どんなことをしてでも北川君に会いたかった。

 いや、会わねばならなかった。




 父が退院する時、ときどき電話をしていいかと彼に尋ねられた。

 が、居間の電話で話す声は、ふすまの向こうの両親の寝室まで筒抜けのはずだ。

 男との電話に眉をひそめる二人の顔が目に浮かび、そのときはどうしてもその問いにうなずくことができなかった。




 暗闇に身を隠して家から遠ざかると、ひとけのない夜道を急いだ。

 いつも彼と待ち合わせた公園の電話ボックスに入り、財布のポケットから小さく畳んだメモを取り出す。

 何度もプッシュボタンに指を伸ばしてはためらい、ため息をつく。


 怖い。


 けれどももしこのまま何もせずに家に帰ったら、わたしはずっとこの焼けつくような想いと後悔を抱えて生きていかなくてはならないのだ。


 大きく息をつき、とうとう思い切ってその番号を押した。

 コール音が聞こえる。

 一回、二回……


『はい、北川です』


 柔らかいその声に、胸の中でふわっと花が開いたような気がした。


「……北川君?」


『ゆっこちゃん? ああ、やっと電話してくれた』


 そう言う彼の声は、軽やかに弾んでいた。




 十五分ほどすると、見覚えのある小型の白いセダンが柳町公園の入り口に止まった。駆け寄ると、タバコをくわえた北川君が振り向いて、親指で助手席に乗れという仕草をした。

 わたしはあたりを見回してからドアを開け、いつものようにすばやく助手席に滑り込んだ。懐かしいタバコの香りが鼻の奥をくすぐる。


「やっと会えた」


 北川君がニッと笑った。


「ごめんなさい、なかなか電話できなくて」


「ひょっとして……お父さんに内緒で抜け出してきた?」


 あまりにたやすく図星を指されたわたしは、気恥かしさに目を伏せた。

 が、そんなことお構いなしに、彼は続けた。


「早坂さんからだいたいのことは聞いたけど、お母さんはどうなの?」


「うん、手術で悪いものは全部とれたらしいし、順調に回復してる。とにかくじっとしていられない人だから、抑えるのが大変なくらい」


「じゃあ、ひと安心だね」



 そんなことを話しているうちに、車は風車のある公園のがらんと広い駐車場に入って行った。


「知ってた? 今日ね、流れ星がたくさん見えるんだって」


 そう言えば、テレビのニュースでそんなことを言っていた気がする。


「星、詳しいの?」


 わたしの問いに、彼は茶目っ気たっぷりの表情で答える。


「ぜーんぜん。ただの受け売り」


 その口調に、こっちも何だか気が楽になる。



 乾いた落ち葉の音を聞きながら、池のまわりの遊歩道に足を踏み入れた。

 正面に大きな風車の影が浮かび上がる。

 その手前に作られた小高い丘を、わたしたちは目指した。


「上まで行ってみようよ」


 北川君が差し出した左手に自分の右手を重ねて、枯れ葉を踏みしめながら丘の頂上に続く階段を上る。

 まるで中学生の恋愛みたい。そう思ったら知らずに涙がにじんできた。


「確か東の方角って言ってた気がするから、こっちかな?」


 丘の上のベンチに並んで座り、それらしき方向をじっと見つめる。

 月のない夜。

 周囲にも人影はなく、ただ果てしない静寂が広がっていた。


「寒くない?」


「大丈夫」


 そう答えたのに、彼は自分が羽織っていたジャケットを脱いでわたしの背中にかけ、可笑しそうにくすくすと笑った。


「ごめん、どうしても一度ね、こういうの、やってみたかったんだ」


「ふふふ、あったかい。それになんか、北川君臭い」


 わたしはジャケットの襟のあたりに鼻をうずめて、深く息を吸い込む真似をした。


「え? 僕、臭い?」


 彼はあわてて自分の腕に鼻をあてて、くんくんと匂いを確かめる。

 そのようすに、不意に愛しさがこみ上げてきた。


「ううん、すごく、いい匂い。生きてる北川君の匂い」


 ああ、好きだ。たまらなくこの人が好きだ。


 まるで強い磁場にからめとられてしまったようだった。

 吸いこまれるように彼に近付き、柔らかな頬にそっと口づけをする。


「唇じゃないの?」


 くるっとした瞳でわたしを見つめ、彼が言った。

 そのことばに促されるように、わたしはもう一度そっと顔を近づけた。


 体中の細胞が開いていく。

 こんな感覚は初めてだった。


 わたしたちは夢中で、何度も何度も唇を重ねた。

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