その34
次の日の夕方、母と一緒に退院後の注意事項を聞き終えると、不要になった着替えやタオルを抱えて父の病室を後にした。
いよいよ明日は退院だ。
もう毎日ここに通うこともなくなるのだ。
ほっとしたような寂しいような気持ちで時間外入り口から出ていくと、植え込みの影から北川君が子どもみたいにぴょこんと顔を出した。
「お疲れさん」
「あ……」
「今日ね、最後だし、一緒に帰らない?」
「……うん」
そう言って並んで歩きだしたものの、昨夜のことを考えるとどんな顔をしたらいいかわからない。
ぎくしゃくとうつむいたまま自転車を押し、熱気をはらんだ西日を浴びながらいつもの帰り道を辿る。
当たり前のようにとなりを歩く北川君の、明るい瞳の色。
髪からほのかに匂い立つタバコの香り、麻のシャツをまとった強くしなやかな体、ふわふわと柔らかな笑顔。
手を伸ばせば届く場所にあると、意識するだけで胸が高鳴る。
そしてその何もかもを、失いたくないとあらためて強く思う。
「うわ、すごい。なんか、不思議な感じ」
素っ頓狂な彼の声に顔を上げると、ちょうど夕陽が遠くの建物の影に落ちていこうとするところだった。
どの家も西側の屋根だけが金色に光り、普段とはまったく違う顔を見せている。
思わずわたしたちは立ち止まり、ぽかんと口を開けたまま神秘的なその光景にしばし見入った。
やがて一瞬の輝きが過ぎ去り、音もなく夕闇が降りてきた。
道路の脇の用水路でザリガニを捕まえていたランニング姿の子どもたちが、口々に何か叫びながら、プラスチック製のバケツをゆらゆらとぶら下げて走り出す。
そのようすを見ながら、北川君はふふっと思い出し笑いをした。
何を笑っているのかわからないまま、わたしの口元もつられてゆるむ。
「六年生の一学期の終わりにね」
「うん」
「僕、こっちにきて初めて、本物のザリガニを見たの」
「え、初めて?」
「それまでは、田んぼとか全然ないところに住んでたからね」
「そっか、東京にいたんだもんね」
「で、夢中になって、ザリガニ捕りしてたらね、クラスのやつらにからまれたんだ。恥ずかしい、そんなの、小さい子がやる遊びだぞって」
そう言われてみれば確かに、ここで見かけるのは低学年の子どもたちばかりだった。
「それにさ、服も持ち物も、ほかの子とはちょっと違ってたんだろうね。しゃれた格好して、おまえ生意気だぞって」
そう、あの年代の子どもたちにとって、みんなと違うというのは致命的なことなのだ。
「それでね、みんなに詰め寄られて、今にも用水路に突き落とされそうになったとき、ちょうどおかっぱ頭のメガネをかけた女の子が通りかかってね。
すごい剣幕で『あんたたち何やってんのよ!』って」
夏の焼けつくような日差し、埃っぽい砂利道、草いきれ。
赤いランドセルと水色のプール用バッグ……
「もしかして、それ……」
「思い出した?」
そうだ。
いつだったか、学校から帰る途中で、大勢の男子がたった一人をいじめている現場に出くわして、卑怯だと食ってかかったことがあった。
さすがに女子に手を出すこともできなかったのだろう、彼らは興醒めしたようにすぐにパラパラと立ち去ってしまったっけ。
「あー、やっと思い出してくれた」
そう言いながら嬉しそうにわたしを見た大人の北川君は、あの青白い男の子とはうまく結び付かないままだった。
彼は少し恥ずかしそうに続けた。
「僕ね、そのときたぶん、その、すごく弱ってたんだ。
なんか、なにもかもどうでもよくなっててさ。僕なんて、川で溺れて死んだって別にいいやって」
「そんな……」
「ホントだよ。毎日、どうやったらこの世界から消えられるかって、そんなことばかり考えてたの」
そう言って彼は、話している内容と裏腹のあっけらかんとした笑顔をみせた。
「でもさ、その女の子は、そんな僕のこと必死に守ろうとしてくれたんだよね。
顔真っ赤にして、声枯らして、自分より明らかに強そうな男子と怒鳴り合って……それ見てたら、胸がじわっとあったかくなってね。
僕ももっと強くなろうって……そう思えたんだ」
そこまで言ってから、北川君は立ち止まり、わたしの目をじっと見据えた。
「そのときからね、僕の中にはずっとあなたがいたんだよ、ゆっこちゃん。
そのことだけは、ちゃんと伝えておきたかったの」
日が暮れて、少しずつ空気が涼しさを取り戻していく。
ひとりぼっちだったあの頃のわたし。
彼と同じように、この世界から消えることばかりを夢見ていた。
そんな自分が、知らないところで誰かに勇気を与えていたなんて。
夕暮れの風にふかれて、柔らかな彼の髪がふわりとなびく。
そのとなりでゆっくり自転車を押しながら、胸の奥にともったかすかな温もりを何度も何度も噛み締めた。




