その33
どのくらいの時間が経っていたのだろう、すっかり眠ってしまったようだった。
車の窓から見える空は真っ暗で、細く立ち上る白い煙が吸いこまれるように消えていくのをぼんやりとした頭でしばらく眺めていた。
煙を辿って視線を下に移していく。
細長くごつごつした指につながるしなやかな腕。
肩の上の軽くウェーブのかかった髪に辿りついたとき、急に彼が振り返った。
わたしを見て、あ、という顔になると、慌ててタバコの灰を地面に落としながら運転席に乗り込んできた。
「どう、楽になった?」
心配そうに彼が尋ねる。
「……うん、もう大丈夫だと思う」
「ああ、よかったー」
彼はシートにもたれ、祈るような仕草をして微笑んだ。
「あの……」
「ん?」
「……ごめんなさい」
小さくなってわたしが謝ると、彼は逆にしょんぼりとうなだれた。
「あのさ、もしかして食事作り、結構無理してたんだよね? 僕、ついつい甘えちゃってた。こっちこそあやまらなきゃ」
「そ、そんなこと……」
わたしが作りたかったんだからと口にしかけてから、そのことばはまるで愛の告白だと気がついて、思わず黙りこんだ。
「……お父さん、あさって退院だって言ってたよね」
「うん」
この人の喜ぶ顔を想像しながらメニューを考え、せっせと買い物をし、包丁を握った時間。ほんの短い間だったけれど、今まで味わったことがないほど幸せだった。
何を言っていいかわからない。
その沈黙を、スローバラードが静かに埋めていく。
そうだ、この曲を聴くのも、今日が最後かもしれないのだ。
「……これからはもう、今までみたいに、食事作れなくなっちゃうね」
冷静さを装ってそう言ってはみたが、目が潤み、自分の声が震えているのがわかった。そんなわたしを、彼はしばらくの間じっと見つめていた。
「それは……もう会わないってことじゃないよね?」
声の真剣さに、わたしは思わず顔を上げた。
「僕は……えっと、僕はこれからも、二人で会いたいと思ってるんだけど」
「えっ……」
「ゆっこちゃんは?」
北川君の視線が真っ直ぐにわたしを捉える。
頭の中が真っ白で、考えがまとまらない。
固まったまま何も言わないわたしに焦れるように、彼は畳みかける。
「……いや?」
その声が急に暗い響きを帯びる。
「そうじゃない、そうじゃないけど……」
わたしは必死に否定する。
「そうじゃないけど、何?」
「だから……」
「だから?」
北川君はわたしから決して目をそらさない。
わたしは思わず視線を落とし、口をぎゅっときつく結んだ。
「だから、何?」
彼がぐいぐい近付いてくる。
誰も踏み込んだことのないところまで。
不意に恐ろしくなり、反射的にくるりと背中を向けそうになる。
けれどわたしが拒絶したら、彼はそのまま遠ざかり二度と手の届かないところに行ってしまうに違いないのだ。
「言ってみてよ、ゆっこちゃんが思ってること」
彼はさらに顔を近づけて、私の瞳をのぞきこむ。
「……こ、怖い」
わたしは絞り出すようにそれだけ言った。
北川君はハッとして、ばつの悪そうな顔で頭をかいた。
「ごめん、強引過ぎた」
「違う、そうじゃない、そうじゃなくて……」
わたしは声を裏返らせながら、必死にことばを探した。
「わ、わたし、バカだから。バカみたいに、何でも本気にしちゃうから。
相手が軽い気持ちで言ったことも、全部本気にしちゃう。
だから、北川君のことばだって、真に受けちゃだめだって、ずっとそう思って……」
とうとう言ってしまった。
体ががくがくと震えている。
北川君は驚いた顔でそれを見ていたが、やがてふっと表情を崩した。
「わかってないなあ、ゆっこちゃん。僕はね、あなたのそのバカみたいに真っ直ぐなところが、たまらなく好きなんだよ」
翳りのない瞳であっさりと告げられたそのことば。
胸いっぱいにひたひたと喜びが満ちていく。
が、次の瞬間、たまらなく怖くなった。
あのことを知ったなら、彼はいったいどうするだろう。
男に体を開き、堕ちていくにまかせて生きていたあの日々。
軽蔑されるに違いない。
踵を返してすぐさまわたしから去っていくかもしれない。
でも、素知らぬふりで付き合うなんて、わたしにはどうしてもできない。
「ごめんなさい、もう少し、待っててもらえる?」
震える声でそう告げた。
彼は何か聞きたそうにしていたが、それを飲み込むように、わかった、とだけ答えた。




