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その32

 思っていた通り、母はわたしの体調が悪いことになど少しも気づかず、いつものように仏頂面で弁当箱を受け取った。

 やっぱり、とわたしは心の中で皮肉な笑みをこぼしながら病室を後にし、北川君の車に戻った。



「大丈夫?」


 彼が心配そうにのぞきこむのを見て、わたしは初めて自分が少し涙ぐんでいることに気がついた。ふっと心が倒れこみそうになるのをぐっとこらえて、唇をかんでうなずく。


 彼は、誰にでも優しいのだ。

 そして誰とでもあの店に行き、誰にでも簡単に寂しい生い立ちを話して同情を買おうとする人なのだ。


 何度もそう自分に強く言い聞かせながら、身を固くして助手席に座る。

 けれどもわたしの心は理性を無視して、彼の的を得た優しさにだらしなく傾いていく。



「もし体が平気だったら、少し、話さない?」


「……少しなら」


 戸惑いがちに答えると、北川君は小さく微笑んだ。


 車はいつものバラードを流しながら、いつもの道を走り出す。



 けれどもどうしたことか、のどの奥に何かがつかえているようでうまく息ができない。

 そわそわと頬や口元や胸を手で何度も押さえ、唾を飲み込んだ。


「ごめん、やっぱりそのまま送って行ったほうがよかったかな」


 いつもの公園に着くと、北川君はわたしの顔色を見てうろたえたように言った。


「とりあえず、もう少し体を倒したほうがいい」


 そう言って彼はわたしの体にかぶさるように身を乗り出し、シートの脇のレバーを引いた。

 鼻先で髪が揺れ、香ばしいタバコの匂いがわたしを包む。



 次の瞬間、目に見えない激しい濁流に飲み込まれたかのように突然息ができなくなった。


 何が起こったのかわからずパニックに陥ったわたしは、目の前で揺れる彼のシャツを夢中でぎゅっと握った。


 彼が驚いたようにこちらを見る。


「大丈夫? 気持ち悪い?」


 わたしはかすかにうなずきながら、溺れかけた人のように必死で彼にしがみつく。


「どうした? どんな感じ?」


「……苦しい……」


 荒い息をしながら、やっと答える。

 呼吸がどんどん激しくなっていき、手足がぼんやりとしびれていく。


「とにかく、横になりなさい。病院に戻ろう」


 そう言って彼はわたしを倒したシートに寝かせようとしたが、わたしは力なく首を横に振りながらながら、なおも彼にしがみつこうとした。


「病院はいやだ……」


 病院には、あの母がいる。


「ゆっこちゃん」




 体が勝手にぎゅっと縮こまり、寒いわけでもないのに小刻みに震えてしまう。

 北川君は助手席に身を乗り出した不自然な姿勢で、大きく息をしているわたしの背中を何度も何度もそっとさすった。


「大丈夫だから、落ち着いて。ね?」


 車内に流れるささやくようなスローバラード。

 優しい子守唄のような北川君の声。


 ごつごつした手のひらから、じんわりと温もりが伝わってくる。



「ゆっくり息を吸ってごらん。じゃあ今度は、ゆっくり吐いて」


 最初はわたしの意志に逆らって激しく暴走していた呼吸が、北川君の柔らかな声に組み敷かれるように少しずつ穏やかになっていく。


 それを何度も繰り返すうち、少しずつ規則正しいリズムが戻ってきた。




 嵐が去った後のような脱力感。


 ふと見ると、彼が心配そうにわたしをのぞきこんでいる。


 泣きそうなその瞳の色に温かく包まれて、いつしか意識は静かに遠のいていった。

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