その30
突き刺さるような夏の日差しが徐々にその勢いを失い始めたころ、とうとう父の退院が決まった。
これからは父も母もずっと家にいるとなれば、今までのようにこっそり一人分多く食事を作ることも、それを持ち出すことも、そもそも家を抜けだすことも難しくなるだろう。
沈んだ気持ちで病棟のトイレに向かうと、患者の尿量をチェックしている千尋に出くわした。彼女はわたしの顔を見るなり軽く眉を上げて、手に持ったファイルに数字を書き込みながら言った。
「お父さん、もうすぐ退院だね」
「あ、うん」
「明日家族にも退院後の注意とかあるから、よろしく。井原センセイ、このまま実家にいるの?」
「当分はそのつもりだけど……」
まだ話が続くのかと思い個室に行くのをためらっていると、ファイルから顔を上げた千尋は不意にわたしをにらみつけた。
びくっと身をすくめる。
「ね、センセイってさ、北川君と付き合ってんの?」
「え? い、いや、付き合ってるわけじゃ……」
唐突な問いかけに戸惑うわたしを、彼女はさらに強い視線で射すくめる。
「へえ、付き合ってもいないのに、毎日車で出かけるんだ」
「え? あ……いや、それは、あの、ただ夕飯を……」
動揺して、思うようにことばが出てこない。
あんなに気をつけていたのに、一体どこで、誰に見られていたのだろう。
そんなわたしの気持ちを見透かすかのように、千尋はうっすらと笑いながら言った。
「どうしてばれたの? って顔してるね。心配しなくても大丈夫、気づいてるのたぶんわたしだけだから」
わたしのほっとした顔を見て、千尋はあきれたように言った。
「そんなに隠したいならね、もっとうまくやんなさいよ。いつも、病院のすぐ裏に車停めるでしょ。すぐ上の病室から丸見えだから」
「いや、だから、そういうんじゃ……」
千尋はおどおどするわたしをもう一度にらみつけると、口の端を意地悪そうに歪めた。
「国道沿いのファミレスでも行った?」
「え?」
「で、小さいころの話とか聞いちゃったのかな」
そう言って千尋は、意味ありげにふふん、と笑った。
頭の中が真っ白になった。
「ああ、別に付き合ってるんじゃないんだもんね、関係ないか」
わざとらしい口調でそれだけ言うと、千尋はキュッキュッとリズミカルにナースサンダルを鳴らしながら去って行った。




