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その3

 思えばいつもひとりだったような気がする。


 両親だって姉だって友だちだっていたはずなのに、それでも気がつくと自分だけが世界からぽつんと切り離されているような、どこにも自分の居場所なんてないような、そんな気がしてならなかった。



 故郷を離れ東京の大学に進学したけれど、華やいで見えるキャンパスの中でもやはり孤独なままだった。


 それでもどうにか卒業し、就職し、それから一体いくつの会社を転々としたことだろう。

 どこにいっても誰かの声が怒気を含むたびに怯え、意味などわからないままへこへこと頭を下げ、けれどまたすぐに同じミスをしては怒鳴られ舌打ちされた。


 どうしたらいいのかわからなかった。

 ただひとつわかったのは、当たり前のようにみんながたやすくやってのけることが、なぜだか自分にだけはできないということだった。


 毎日のように緊張し過ぎてヘマをやらかし、仕事の話以外はまともに人としゃべることもできない。朝のあいさつのタイミングすら、ひと月たってもつかめないままだった。


「お勉強だけは上手なのね」


 わたしの出身大学を知った同僚の、皮肉とも憐れみともつかないつぶやき。


 それでも食っていかねばならないと、一年前に最後の力をふりしぼるようにして始めた倉庫の軽作業のアルバイトも、たった三日でクビになった。



 最後のわずかな給料を受け取り、ふらふらとあてもなく街をさ迷った。

 とてもこれから生きていけるとは思えず、車の前に飛び出してすべてを終わらせる光景ばかりが目の前にちらついた。

 けれどもいざ大通りで猛スピードの車を目にするとすっかり足がすくみ、最後はとうとう道端にぺたりと座り込んだ。


 道行く人々はみな眉をひそめて、わたしをよけながら足早に去っていく。

 そんな中でただひとり、私の顔をぐるりとのぞきこんで「どうした? 具合悪いのかい?」と声をかけてくれたのが、あの男だった。



 当たり前のように連れて行かれた薄暗いホテルの一室で、仏さまのように見えていた男の笑顔はいつの間にかなれなれしいうすら笑いにすり替わっていた。

 男の手がじっとりと触れるたびに、ぶるっと体が震える。


 けれどほかにいったい誰が、わたしなんかを相手にしてくれるというんだろう。


 悲しみが波紋のように体中に広がっていく。

 どうでもいい、もうどうでもいいのだ。

 どこまでも堕ちてしまえばいい。


 ブラックホールのように大きくぽっかりと開いた深い闇に吸い込まれそうになり、気づくとわたしは目の前にあった汗ばんだ肉体に爪を立て、夢中でしがみついていた。

 男はほう、という顔をすると、夜が明けるまでわたしの体を執拗に求め続けた。



 汗ばんだシーツにまみれ、遠くなる意識の中でぼんやりと思った。


 この男にさえも捨てられたら? 


 そう、そのときこそ、何もかもを終わりにすればいい。








 タバコのガサガサとした食感を拒絶するように、のどが締まる。

 なかなか飲み込めないでいるうちに口の中で葉がほぐれ、悪寒が走るほどの不味さが広がっていく。

 そのまま吐き出したくなるのをこらえながら、無理やり飲み下した。


 続けて二本目、三本目を、同じようになんとか飲み込んだ。

 それだけでもうくたくただ。


 最初の勢いが止まると、急に激しい脱力感が襲ってきた。

 肩で息をしながら、ひんやりとした畳の上に横になり、時を待つ。


 もうこれくらいで大丈夫だろう。

 あとは流れに身をまかせてさえいればいい。


 親は少しは悲しむだろうか。

 死ぬほどの苦しみに気づいてやれなかったと後悔するだろうか。

 それとも、なにひとつ不自由なく育ててやったのにとそれでもわたしをなじるだろうか。


 不思議なくらい冷静な自分を感じながら、そっと目を閉じる。

 大きな仕事をやり終えたあとのような、すがすがしい気分でさえあった。



 けれどもまもなく、穏やかにフェードアウトしていくはずの体が急に暴れ出した。

 全身がむきだしの心臓になったかのように、激しい鼓動が全身をうちのめす。


 冷や汗が流れる。

 天井が大きく歪み、回転し始める。


 いったい、これは何だ?

 苦しくて必死に身をよじろうとするのに、手も足も少しも思うように動かすことができない。

 あらがいようのない圧倒的な力で抑えつけられ、出口のない深い闇に吸い込まれていくようだった。


 奈落の底、ということばがふいに浮かび、全身が総毛立った。

 そこにいったら、本当にもうおしまいだ。


 とたんに体が震えだし、叫び出しそうになった。

 さっきまでの静かな気分が嘘のように、体中の細胞が全力で抵抗しはじめる。


 と、体の奥から突然何かがぐっと込み上げてくるのを感じた。

 無我夢中で鉛のようになった体をひきずり、這うようにトイレに向かう。



 便器にたどり着いたその瞬間、噴水のように激しく嘔吐した。

 さっき食べたタバコの茶色い葉が、否応なく体の中から押し出されていく。

 チリチリとのどが焼け、涙で視界が滲む。


 たまらずその場にうずくまるわたしに、嘔吐の波は何度も何度も暴力的に押し寄せた。

 そのたびへとへとになりながら吐き続け、最後にはとうとう苦い胃液しか出てこなくなった。


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