その29
あたりを見回し誰にも見られていないことを確かめてから、そっと門を出る。
夕闇の迫る街角を、ひとつまたひとつと曲がる。
あの公園の、あの茂みの向こう側に、もしあの白い小型のセダンがなかったら?
昨日の会話も、車の中で聞いたバラードも、わたしに向けられた柔らかな笑顔も、全部夢だったとしたら?
待ち合わせ場所に彼の姿を見つけるまで、そんなことばかり考え続けておかしくなりそうだった。
薄闇の中でゆらめくタバコの煙を見つけ、ようやくこれは夢ではなかったと深い安堵のため息を漏らす。
けれど、助手席に乗り込むわたしの目が心なしか潤んでいることを、北川君は決して見逃さない。
「どうした? 何かあった?」
そう言って顔をのぞきこまれただけで、体がカッと熱くなる。
何と答えていいかわからずに黙ってうつむきかすかに首を振るわたしに、彼はそっと手を伸ばし頭をポンと叩く。
心地よいタバコの香り。
それだけで、思わず泣きそうになる。
三十八度の熱が出たときも、ストーブでやけどをしたときも、毎日のようにいじめられて死にたいと思い詰めていた日々も、親でさえ気づいてはくれなかった。
なのにどうして、この人にはわかるのだろう。
二人分も三人分も作る手間は変わらないからと、自分からそんなことを言い出したのは、会い続ける理由が欲しかったからだ。
けれども、どうせなら一緒に食べようと北川君が言ってくれるなんて、思ってもみなかった。
それからは毎晩、柳町公園で落ち合うとまずそのまま彼の車で病院に向かい、病棟の裏の一番目立ちにくい場所に停めて母の夕飯を病室に持っていった。
一度だけ、朝の交代の時になじられた。
「ゆうべは何時から寝てたんだ。ティッシュもうひと箱持ってきてもらおうと思って電話したのによ、いくら鳴らしても出ねえんだから、まったく」
一瞬心臓が飛び出しそうになったが、娘が電話の音に気付かないほどぐっすり寝入っていたことを疑いもしないその口調に、ほっと胸をなでおろした。
家を抜け出してこっそり男と会っているなんて知ったら、何と言われるかわからない。
病院から十分ほど車で走ると、風車のある大きな公園に着く。
がらんとした駐車場に車を停めて、二人分のお弁当を広げる。
最初は池のほとりの東屋で食べようとしたのだが、あちこち蚊に刺された上に通りすがりのカップルに変な目でじろじろ見られたので、次の日から車の中にしようということになったのだ。
お行儀よく「いただきます」と手を合わせ、嬉しそうに箸を動かしはじめた北川君が、口をきゅっとすぼめて目を丸くする。
「うわ、すごいね、こんな固くてしょっぱい梅干し、久しぶりに食べた」
「あ、ご、ごめんなさい、食べにくい……よね?」
家ではずっと当たり前のように食べていたけれど、考えてみれば市販のものとは全然違う。思わず身をすくめて謝るわたしに、彼は不思議そうな顔をする。
「そうじゃなくて、すごく正直な味がするから、びっくりしたの。ね、これって、自家製、だよね?」
「毎年、母が漬けてたから、たぶん今年も……」
「そっか、あのお母さんね」
北川君は顔を上に向けて、面白がるようにくすくすっと笑った。
「塩はきついけど、嘘のない味。僕は、嫌いじゃないなぁ」
えっ、と声がでそうになった。
わたしは不思議な生き物を見るような気持ちで、おいしそうに目の前のお弁当を平らげていく彼を見つめた。
それからは、来る日も来る日も頭の中は夕飯のことでいっぱいだった。
どうしたら少ない予算で、彩りよくバランスのとれた満足感のある食事が作れるだろう。
畑で採れた人参やインゲンを薄切り肉で巻いてみたり、庭の青じそを千切りにしてゴマと一緒にご飯にまぜたりと、思いつく限りの工夫をこらした。
そうして出来上がった料理を食べる北川君の、満足そうな顔。
わたしは生まれて初めて、自分ではない誰かのために何かをすることの喜びを知った。




