その28
「これが、小さいころの朝ご飯」
北川君が手にしていたのは、スティックシュガーだった。
わたしは何の事だかわからず、ポカンと彼の顔を見返した。
国道沿いのファミリーレストラン。
わたしたちは窓際のテーブルに、向かい合って座っていた。
「朝ご飯って」
「うん。うちの母、それこそ家事をしない人でね。朝はたいてい、袋に残ってるお菓子を食べたり、ジャムをなめたり、でなければこれを口にザーッと流し込んで、学校に行ってた」
彼はひとごとのように、淡々とした口調で言った。
「そんな顔しないでよ、大したことじゃないんだから」
「でも……」
わたしの顔をちらりと見ると、彼はふっと微笑んだ。
「そっか、やっぱりこれって、普通じゃないよね。
でもね、小さいころは、どこのうちもそんなもんだと思ってたんだ。それに、学校に行けば給食が食べれたから、別にどうってことなかった」
手に持ったスティックシュガーを器用にもてあそびながら、彼は話し続けた。
「……小さいころは起きてこないだけだった母がね、そのうち家を空けるようになったの。最初は一晩、次は一週間、しばらくすると、とうとう帰ってこなくなった。気づいたときにはクローゼットもきれいに空っぽでさ。
さすがに父もまいっちゃって、僕を祖母のところに連れてきたんだ。
それが、六年生の夏」
ひょろりとした青白い顔の、もやしのような転校生。
「お母さんは……どこへ?」
「ん? 男と、逃げてた」
彼は、そのことばにまったく不釣り合いな白い歯を見せて笑った。
姉が言っていた噂は本当だったのだ。
「だから、そんな顔しないでってば。僕はもう、なんとも思ってないんだから」
「だって……」
北川君の顔は、確かにふんわりと微笑んでいるはずなのに、どうしても泣いているようにしか見えなかった。
こんなとき、いったい何を言ってあげたらいいのだろう。
「でもね」
言いかけて北川君はストローに口をつけ、アイスコーヒーをごくりと飲んだ。
「夏休みの終わりに、母がひょっこり僕を迎えに来たんだ。これからは、お母さんと二人で暮らそうって」
「何それ……」
そう言ってしまってから、わたしはあわてて口をつぐんだ。
北川君がほんの一瞬、悲しそうな目をしたからだ。
「そうだよね。今思うと、すんごい勝手な話。
でもね、子どもってホントにバカでさ。僕はそのとき、飛び上がって喜んだんだ。また、お母さんと暮らせるって」
幼い北川君の姿が、目に浮かぶ。
「……お父さんは何て?」
「もちろんすごく怒ってたけど、僕がどうしてもそっちに行くって言ったから、まあ、仕方なくね」
「じゃあ、それからはずっと、お母さんと?」
「いや、ひと月で、追い出された」
彼は目を伏せたまま、ストローでカラカラと氷の入ったアイスコーヒーをかきまぜた。
「え……」
「すぐに新しい男ができたからね」
北川君が口の端で皮肉な笑みを漏らした。
「で、あとはずっと父と母の間を行ったり来たり。おかげで学校にも全然なじめたくてさ、こんなひねくれた性格になっちゃった、ふふふ」
彼はそう言って笑みを浮かべながら、箱から取り出したタバコを口にくわえ、ライターで火をつけた。
「別に……ひねくれてるとは、思わないけど……」
ためらいがちにそうつぶやくと、彼はまっすぐわたしの目を見て、にっこり笑った。
「そう思うのはね、ゆっこちゃん、あなたがひねくれてないからだよ」
「え?」
どう答えていいかわからない。
わたしは黙って、すっかり汗をかいたアイスミルクティーのグラスを手に取った。
北川君の瞳が、くるんと丸く輝いた。
「ゆっこちゃん、今の僕の話、全部本当だと思ってるでしょ?」
「え、え、ち、違うの?」
わたしはびっくりしてグラスを落としそうになった。
北川君はくすりと笑って、いたずらっ子みたいな顔をする。
「実は嘘」
「え」
私が一瞬気色ばんだのを見逃さず、面白がるように彼は眉を上げた。
「なーんちゃって、本当は、本当に本当だよ。でも、嘘って可能性もあったわけじゃない? それ、考えてた?」
わたしは黙って首を横に振った。
「でしょ? だからね、そうやって人の話を疑わないで聞けるっていうのが、ひねくれてない証拠。
もし僕だったらね……最初から最後まで、こいつ作り話してるんじゃないのか? って身構えながら聞くな」
「……全然そんなこと、考えてなかった」
「うん。だからね、やっぱりゆっこちゃんは素直なんだよ。それってさ、自分で思ってる以上にすごいことだよ」
北川君にそんな風に言われても、どうしてもピンとこなかった。
すごいというなら、忍耐強くどんな場でもそつなく振る舞える姉のほうが、よっぽどすごい人間に思える。
そう言うと、北川君はかすかに顔を曇らせた。
「ねえ、これだけは覚えておいて。
あなたは、お姉さんみたいになる必要なんてないんだよ。いや、そうなっちゃ、いけないんだ」
北川君のアイスコーヒーも、わたしのアイスミルクティーも、しゃびしゃびに溶けて何の味もしなくなってから、わたしたちはようやく店を出た。
車に向かう途中で、わたしは思い切って尋ねた。
「あの、どうして?」
「ん?」
「どうして、こんな大事な話、わたしに?」
彼は口を曲げて、向こう側に煙をゆっくりと吐き出した。
「うーん。どっかで、聞くでしょ?」
「え?」
「あの話の続き。うちの親父、最後は身を持ち崩して、ばあちゃんの財産だまし取ろうとまでしたからね、この町では有名人なの。だから、ここにいるなら、いずれ誰かから聞くと思うんだ。
でも、なんというか――あなたにはちゃんと自分で話しておきたかったの」
そう言って彼は、心まで見透かすみたいに真っ直ぐにわたしを見つめた。




