その26
病院まで車で送るよと言われたが、どうしてもどこかで誰かに見られるのが怖くて、それは断固として拒否した。
力いっぱい自転車をこぎ、大急ぎで母にお弁当を渡すとすぐさま引き返す。
からかわれているんじゃないだろうか。
わたしがあわてて戻ってくる様子を、どこかでみんなで笑って見ているんじゃないんだろうか。
子どもの頃から受けてきた数々の仕打ちが頭をよぎる。
なのにどうしても、自転車をこぐ足を止めることができない。
家に自転車を置いて公園に戻ると車内のライトが一瞬ついて、タバコをくわえた北川君が親指でくいっと助手席を示した。
光に集まる蛾みたいに、吸い寄せられていく。
「お疲れさま」
北川君はそう言ってドアを開けてくれた。
わたしはためらいがちにうなずき、あたりを見回して誰もいないのを確かめると、緊張しながらシートにすべりこんだ。
ドアがバタンと予想外に大きな音を立て、思わずびくりと北川君の顔を見る。
「こら。この車、まだローン残ってるんだから、壊しちゃだめだよ」
軽口を叩きながら彼が笑う。
つられてわたしも、くすりと笑う。
けれどすぐに沈黙が下りてきて、わたしはほんの少し身を固くする。
「……なんかさ、いつもと違うところで会うと、不思議な感じがするね」
「……うん」
「病院だと、二人でいても二人じゃないっていうか」
「……うん」
「ゆっこちゃん、さっきから『うん』しか言ってない」
わたしたちは顔を見合わせて、思わず笑った。
狭くて暗い車の中に、二人の声だけが軽やかに響く。
「あ、お弁当、待ってる間に食べちゃった。すっごいおいしかった」
「ほんとに?」
「うん、ほんとに。なんかね、久しぶりに体がすごく落ち着くもの食べた」
「え……いつも、どんなもの食べてるの?」
「ん? んーとね、お・し・え・なーい」
冗談めかした口ぶりにどう切り返していいかわからず、下を向いて黙りこむ。
彼は少し慌てたようにことばを重ねる。
「うそうそ。最近、ろくなもの食べてなくてさ。せいぜいコンビニのおにぎりとか……何も食べないで呑んで終わっちゃったりとか、ね」
そう言って北川君は、あっけらかんとした笑顔を作って見せた。
スーパーで見かけた、白いラベルの瓶が目に浮かぶ。
「それよりさ、ね、どこに行きたい?」
骨ばった長い指でカーステレオを操作しながら、北川君が尋ねる。
「どこって言われても……」
喫茶店? 映画? カラオケ?
そもそもこんなとき、普通はどうするものなのだろう。
男の人と出かけたことなどほとんどなかったし、二人きりで車に乗るのも初めてなのだ。
けれどそんな風には思われたくなくて、精一杯ことばを選ぶ。
「母から電話があるといけないから……あまり長くは無理かも」
「そうなんだ」
北川君の落胆した顔が、わたしの心をひそかにくすぐる。
「あ、でも、ホントにたまにしかないから、大丈夫だとは思うんだけど」
「そう。じゃあ、適当に走って、どこかでお茶しようか」
わたしはほっとして、黙ってこくりとうなずいた。




