その25
火にかけた雪平鍋に油をひいて、一口大に切った鶏肉を入れる。
ジュッという音は、鍋が充分に熱くなっている証拠だ。
しっかり焼き色がついたところで、濡れ布巾の上でいったん鍋の底を冷ます。
そうすることで肉が鍋に焦げつかなくなるというのは、料理の本から得た知識だ。
母には料理を教わったことがない。
朝から晩まで男たちと一緒に畑に出ているのに帰ってくればすぐ飯だと言われて、ちゃんとしたものを作る余裕なんてありゃしないというのが母の言い分だった。
だがもしたっぷり時間があったとしても同じことだったに違いない。
母が作るものには、センスも愛情も、まったく感じられなかったからだ。
「こんなもんで、いいんだろ?」
濃いだけでうまみのない味噌汁や半生の煮物からは、そんな声が聞こえる気がした。口に入れるたび、お情けでエサを投げ与えられた野良犬みたいにみじめな気持になっていく。
「うちのハンバーグ、パイナップルが乗っててね、すっごいおいしいの」
「あー、知ってる、それハワイアンっていうんだよ。うちは、だいたい目玉焼きかな。ね、ゆっこの家のは、どんなの?」
「えっとね、チキンハンバーグ、イシイの。でも、何も乗せないよ?」
当たり前のようにそう答えたときの、みんなの困惑した顔。
小学生のわたしは、ハンバーグが家庭で作れるものだということすら知らなかった。
唐揚げもグラタンもただの憧れでしかなく、外食もしたことがなかった。
中学生になって初めて豊おじさんにファミリーレストランに連れて行ってもらったときには、何をどうやって注文したらいいのか出てきたものをどうやって食べたらいいのかと、最初から最後まで緊張しっぱなしで味などひとつもわからなかった。
一人暮らしを始めるとき、家の本棚でほこりをかぶっていた分厚い料理の本を、何の気なしに引っ越し荷物に入れた。
風呂もない四畳半の部屋についた小さな台所で、色あせた写真の下の説明書きをひとつひとつ確かめながら玉ねぎを刻み、特売のひき肉をこねた。
本の通りに丁寧に味をつけ、小判形に整えて焼く。
そうしてあっさりと「手作りハンバーグ」ができあがったとき、長いこと自分を打ちのめしてきた料理という分厚い壁が、実はこんなにたやすく乗り越えられるものだったことを初めて知った。
土間の台所の年季の入ったガス釜で、ご飯が炊きあがる。
若い男がどのくらい食べるのかは、よくわからない。
悩んだあげくに、高校生の時に使っていた弁当箱のひとつにご飯を、もうひとつにおかずを入れることにした。
筑前煮ができあがるまでに、厚焼き卵とサラダも作ろう。
黄色い卵、緑のキュウリ、赤いプチトマト。
お肉、野菜と彩りもバランスもいい具合に収まったお弁当をながめていると、何とも言えない満足感がこみ上げる。
ふと、昼間の北川君の、はにかんだような顔を思い出す。
喜んでくれるだろうか。
おいしいと言ってくれるだろうか。
想像するだけで、胸の鼓動が速くなる。
六時半に、柳町公園で。
ゆっこちゃんちに取りに行くよと北川君は言ったが、近所の人にそんなところを見られたら、何を言われるかわからない。それで、家から少し離れたところにある小さな公園で待ち合わせをすることにしたのだ。
二つのお弁当を前かごに入れて自転車のペダルをこぐ。
足が自分のものでないみたいに浮わついて、たった三分ほどの道のりがひどく遠く感じられた。
公園の入り口に停まっていたのは、白い小型の乗用車だった。
窓からぼんやりとたなびく紫煙。
自転車のブレーキの音に、北川君が振り返って手を上げる。
薄暗闇に白い歯が浮き上がって見える。
「はい、これ」
運転席の窓から黄色いバンダナに包んだ弁当箱を渡す。
「うわっ、嬉しいなあ。まだあったかい」
包みを大事そうに抱えるしなやかな腕。
「そ、それじゃあ、また明日」
あわてて自転車にまたがろうとしてペダルを踏み外すと同時に、北川君が短く「あ」と言った。
「え?」
「あの、ね」
「はい?」
すでに陽が落ちてあたりはすっかり暗くなっていたけれど、彼がまっすぐこちらを見ているのはわかった。
その視線に、息が詰まりそうになる。
「お弁当届けたあとにね、少しどこか行かない?」
「え?」
「だめ、かな」
遠慮がちなその声に、胸の奥が熱くなっていく。
「べ、別に、いいけど……」
弾む心を無理やりに押さえ込み、かすれる声でやっと答えると、北川君はわざとらしくウインクしながら言った。
「僕たち毎日これだけがんばってるんだもの、少しくらい気晴らししたって、ばちは当たらないと思うよ」




