その24
上の空で姉たちを見送ると、わたしは病室に戻らずにそのまま屋上へ向かった。
息を切らし階段を上りきってドアを開けると、柵によりかかったいつもの後姿からうっすらと煙が立ち上っている。
わたしの気配に気づいたのか、ふと振り返った北川君は、いつもの邪気のない笑顔を浮かべている。
「お姉さんたち、帰ったんだ?」
矢も盾もたまらずここに来てしまったけれど、いざ彼を目の前にすると何を言ったらいいのかわからない。
わたしはただうつむいてぎゅっとこぶしを握り、唇を強く噛み締めた。
「どうしたの? 何かあったの?」
「いや、あの……」
「もしかして、また具合悪いの?」
そう言ってこちらをのぞきこむまっすぐな瞳に、自分が何かひどく悪いことをしているような気持になってしまう。
「いや、そうじゃなくて……」
「何?」
「えっと、あの……そう、ご、ご飯がね」
とっさに口を衝いて出たのは、そんなことばだった。
「ご飯?」
「そう、ご飯。今日の夕飯、ち、筑前煮にするつもりなんだけど」
「ごめん、チクゼンニって、どんなんだっけ」
そう言いながら北川君は、不思議そうにわたしを見つめている。
「えっと、たけのことか、ごぼうとか、人参とかを、鶏肉と一緒に炒めてから煮るやつ」
「ああ、なんとなくわかった」
タバコを持った手をとがったあごにあてて、目だけをくるっと上のほうに向け、笑いながら彼は答えた。
「あの、に、煮物って、二人分とかだと、上手くできなくて」
「そうなの?」
「そう、量が少ないと、つ、作りにくいの」
「へえ、知らなかった。そうなんだ」
北川君が感心したように何度もうなずく。
わたしの耳たぶは、どんどん熱くなっていく。
「北川君は、あの、そういう、煮物みたいなのって、食べるの?」
「ああ、ばあちゃんが元気なときは、よく作ってくれたからね」
「じゃあ、あの」
「ん?」
「よ、よかったら、す、す、少し食べない?」
ああ、なんでわたし、こんなこと言ってるんだろう。
迷惑だったら?
このあいだのは、本当にただの冗談でしかなかったとしたら?
「え……」
北川君が戸惑ったような表情を見せる。
とたんに激しい後悔が押し寄せてきた。
「あ、ごめん、いや、ひとりだとちゃんと食べなかったりするのかなって、別に深い意味じゃなくて……こっちも、食べきれないともったいないから、でも、ごめん、気にしないで。
そ、そうだよね、こういうの、よけいなおせっかいだよね。
うん、あの、忘れて。今のは、なしっていうことで……」
たった今あったできごとを消しゴムでごしごし消し去ろうとするみたいに、わたしは必死にしゃべり続けた。
もしこのときひとことでも拒絶のことばを言われたら、わたしはこの場から走って逃げ出していたに違いない。
ところが彼は次の瞬間、焦りまくっているわたしを上目使いでちらりと見ると、まるで小さな子どもみたいに、はにかんだような、でも今にも泣き出しそうな顔でこうつぶやいた。
「……ほんとにもらっても、いいの?」
それは、いつものふわふわの笑顔とはまるで違っていて。
胸の奥がきゅうと締め付けられ、急にふうっと体の力が抜けていく。
なぜだか涙が滲んできた。
「……うん、食べてくれる? そしたら……すごく助かる」
何でもないことのようにそう言いながら、わたしの声は鮮やかに震えていた。




