その23
週末の午後はにぎやかだ。いつもはひっそりとした病院の空気が、たくさんのざわめきと笑顔に満ちていく。
小さな子どもの足音。
繁雑に交わされるあいさつのことば。
健康な人々の発するきらめくようなエネルギー。
そんな光景を苦々しく感じてしまう自分は、実はここに入院している病人よりも病んでいるのかもしれないと、ひとごとのように思ったりする。
父は下痢と高熱がようやくおさまると嘘のように順調に回復し、かなりの時間起き上がっていられるようになっていた。
その頃合いを見計らってか、姉は美咲と大悟、そして義兄も連れて見舞いに訪れ、病室で和やかなひとときを過ごしていた。
「じゃあ父さん、また来るね」
「じーじ、先生の言うこと聞いて、ちゃんとお利口にしてるんだよ」
大悟の妙にませた口調に皆が思わず頬をゆるめる中で、ただひとり美咲だけが硬い表情のまま、上手に愛嬌をふりまく弟をじっと見つめていた。
きつく結んだ口元と、ピンクのTシャツのポップな模様とが、ひどく不釣り合いに思える。
姉たちと一緒に病室を出て、玄関まで見送ろうとついていくと、
「ちょっとひと休みしていこうか」
待合室の自動販売機の前で、姉が言った。
「わーい、ジュースジュース、僕、ピリピリするのがいい!」
手をたたきながら大悟が体を左右に振る。
「大ちゃんは、まだピリピリはダメだよ」
「えーっ」
大悟がふくれっつらを見せると、義兄が助け船を出した。
「じゃあ、パパのコーラを少ーしあげようか」
「ほんと? やったー!」
そう言って嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねていた大悟は、近くを歩いていた男にそのまま思い切りぶつかってしまった。
「わっ」
床に転がって一瞬きょとんとした顔をした大悟は、次の瞬間、顔を歪ませ大声で泣き出した。大慌てで姉が駆け寄る。
「すみません! ほら、だから、ちゃんと周り見ないと危ないって、いつも言ってるでしょ」
「ごめんね。ボク、大丈夫?」
かすかに首を傾けて心配そうに大悟をのぞきこんでいるのは、北川君だった。が、大悟に気を取られてか、わたしには気づかない。
「いえいえ、もう、うちの子が悪いんですから、気にしないでください。お怪我ありませんでしたか?」
「ええ、僕は何も……」
「本当にすみません。ほら、大悟も、お兄ちゃんにごめんなさい、は」
姉に抱きかかえられ、まだ涙で顔をぐしゃぐしゃにしたまま、大悟が弱々しい声で言った。
「ご、ごめんなさい……」
北川君は、いつものふわふわの笑顔を大悟に向ける。
それを目にするだけで、わたしの胸はバカみたいに痛む。
そう、この人は、誰にでも、小さい子どもにさえも、こうやって笑いかけるのだ。
「いいよ。お兄ちゃんこそ、ごめんな」
大悟がべそをかきながら、かすかにうなずく。
北川君はそれを見てほっとしたようにもう一度微笑み、それからわたしがいるのを見つけて、あれっという顔をした。
「井原さん。じゃあ、こちらはお父さんのお見舞いの方?」
そう言うと小首を傾げて、改めてわたしと姉の顔を見比べた。
「あれ、ひょっとして……?」
姉と互いに名乗り合い、もう一度謝り合って彼がその場から去ったあと、姉は声を落としてわたしに尋ねた。
「ねえ、あの人、北川って、ひょっとして、深町の北川さん?」
意味ありげな姉の言い方に、わたしは思わず身構えた。
「深町かどうかは知らないけど。うちの、もっと先だとは言ってた」
姉は何か考え込むように、家事で荒れた指を口元にあてた。
「じゃあ、やっぱりそうかもね。そうか、息子さん、戻ってきてるんだ」
「お姉ちゃん、知ってるの?」
姉が少し口ごもり、子どもたちをちらっと見てジュースに夢中なのを確かめると、さらに声をひそめた。
「あんたはまだ小学生だったから知らないかもしれないけど、あそこのお父さんね、昔けっこう噂になってたのよ」
噂ということばの持つ暗い響きに、わたしはごくりと唾を飲み込んだ。
「確か東京の、なんだっけな、ほら、けっこういい会社で働いてたのに、奥さんが男作って出ていっちゃったんだって。それでおかしくなって、仕事もやめちゃって、子ども連れてこっちに戻ってきたんじゃなかったかな」
東京から逃げ帰ってきた。
それはまるで示し合わせた合図のように、わたしの心をざらつかせた。
「じゃあ、その子どもが、北川君ってこと?」
「いや、まあ、単なる噂かもしれないし」
そう言いながらも姉の口ぶりは、ほとんど決めつけているように聞こえた。
――うち、親いないんだ。いろいろあってさ、ずっと、ばあちゃんと二人暮らしだったの。
「どうなったの?」
「え?」
「いや、帰ってきて、そのあとどうなったのかな、と思って」
「ああ。わたしが聞いたのはね、そのまますっかり酒浸りになって勝手に親の土地売ろうとして、それがばれて追い出されたって話だった気がするなあ」
「子どもも?」
「え? ああ、そうだね、たぶんそうなんじゃないの」
姉が気がなさそうな返事をしたそのとき、待合室の椅子でコーラの缶を傾けていた大悟が急にむせ始めた。
「あれれれ。ママ、タオルある?」
義兄に言われて、姉は大きなバッグからスッとアニメのキャラクターつきのハンドタオルを取り出した。
「ほらほら、こっち向いて」
鼻水とコーラでべたべたになった大悟の口の周りを拭きながら、姉が思い出したように付け足した。
「なんなら、母さんに聞いてみたら。その北川さんって、母さん方の遠い親せきにあたるらしいから」
そんなことは初耳だった。
「まあ、聞いても教えてくれないかもしれないけどね。あの頃やたら『こんなみっともない人と血が繋がってるなんて』って、怒ってたから」




