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その22

 レジを終えて買ったものを袋に詰め店を出ようとしたときに、突然背後から声をかけられた。


「あー、ゆっこちゃんだぁ」


「は、はい?」


 びくんとして振り向くと、そこにはブルーのシャツをまとい、とびきりひょうきんな笑顔を作った北川君が立っていた。


「やだな、そんなにびっくりした?」


「あ……いや、だって、『ゆっこちゃん』って……」


「え? だって、病院にいるおばさんたちみんな『井原さんとこのゆっこちゃん』って言ってるじゃない」


 困惑する私に、北川君は不服そうに口をとがらせた。


「いや、あれは……友達にはそんな風に呼ばれたことないし」


 これは本当だった。


 小さなころからせいぜい『ゆっこ』や『イハラ』で、たいていは含みを持たせて『センセイ』、ひどいときには『メガネザル』なんて呼ばれてきたのだ。

 そしてそのたびに、自分は可愛げのない子どもなのだということを改めて思い知らされ続けた。 


「だってわたし、『ちゃん』っていう雰囲気じゃないから……」


 そう言ってなおもわたしが後ずさると、


「いや、『井原さん』より絶対いいって。よーし決めた、これからは、『ゆっこちゃん』って呼ぶからね」


 彼はそう言って話を押し切った。


 ゆっこちゃん。


 本当はドキドキするくらい嬉しくてたまらなかった。

 けれどどんな顔をしていいかわからず、頬が緩まないように口をきつく結んで下を向いている自分は、なんて面倒くさい人間なのだろう。



「で、ゆっこちゃんは夕飯の買い物?」


 そう言う彼が手にしたスーパーの袋は、ただあの瓶の形に膨らんでいるだけだのように見えた。


「ええ、まあ……」


「今日は何?」


「えっと、ナスとピーマンと鶏肉の味噌炒めと、あと……キュウリとわかめの酢の物」


 そう答えると、北川君の目がの猫みたいにくるっと丸くなった。


「すごいね、ひとりでもちゃんと作るんだ」


「え、いや、母の分、タッパーに詰めてまた病院に持っていくから」


 言い訳のように付け足すと、彼はますます目を丸くする。


「えっ、じゃあまた病院に戻るの? 大変じゃん」


 わたしは曖昧に笑顔を作り、次のことばを探した。


「あ……北川君は? 夜は、お母さんと交代?」


 瞬間、その表情に戸惑いが走ったように見えた。

 が、それは本当に一瞬のことで、すぐにまたふわっとしたいつもの顔に戻った。


「ううん、夜はヘルパーさんにお願いしてるんだ。あまり手間がかかる病人じゃないから、同室の人と二人いっぺんに見てくれてる」


「あ、ああ、じゃあ、お母さんは家のことやって……」


「いやー、うちさ、親いないんだ」


「え? い、いないって」


 予想外のことばにわたしはうろたえた。


「うーん、まあね、いろいろあってさ、ずっとばあちゃんと二人暮らしだったの。っていうか、今はひとりか」


 そう言って彼は、あっけらかんと笑顔を見せた。


 そうだ、そういう家だってあるはずなのだ。

 けれどそんなこと考えもしなかった自分は、なんて愚かなんだろう。


 どんな顔をしていいかわからなくなり、黙りこくってうつむいた。


「やっぱりわかりやすいなー、ゆっこちゃんは。今、すごく悪いこと聞いちゃったって思ってるでしょ。ふふ」


「だ、だ、だって、それは、やっぱりそう思うもので……」


「そうだよ、僕、すっごく傷ついた」


 北川君が怖い表情を作るのを見ると、わざとだとわかっていても泣きそうになった。


「もう、すぐ本気にする。全然、気にしてないよ」


「でも……」


 北川君は、ちょっと困ったような顔で、首をひねった。


「じゃあね……お詫びのしるしってことで、今度夕飯食べさせてよ。それでちゃらってどう?」


 そう言って今度は、いたずらっ子のような顔になる。


「え、え、え、それは……」


 頭の中をものすごい勢いでいろんなことが駆け巡った。

 作った料理をどうしたらいいのだろう。いつどうやって渡す? そもそも、いったい何を作ればいいんだろう。

 頭の中は軽いパニック状態だ。


 それを見た北川君は、ほんの少し寂しそうな顔でふっと笑った。


「冗談だよ、冗談。そんな本気で悩まなくていいよ。ね?」


「あ、冗談……」


 一気に肩の力が抜ける。


「じゃあ、遅くなるから行くね。また明日、病院でね」


 そう言って手をひらひらさせて、彼は遠ざかって行った。



 夕闇に包まれた後姿を、吸いつくようにどこまでも目が追いかけてしまう。


 これから彼は誰もいない家に帰り、あの酒をひとりで飲むのだろうか。

 うなだれた首筋、伏せられた濃いまつ毛。

 その姿を思い浮かべるだけで、心がひりひりと痛んだ。


 追いかけていきたい。

 そばにいてあげたい。


 そんなことできないとわかっているのに、わたしの心はいつまでも彼の後姿をなぞり続けていた。

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