その21
夕暮れ時のスーパーマーケット。
ぎっしりと並んだ自転車の、わずかな隙間にようやく前輪を押し込んだ。
とその拍子に隣の青い自転車のスタンドが跳ね、続けて何台かがガシャガシャと将棋倒しになっていく。
「あーもう」
思わず声が出てしまう。
疲れが何倍にもなって、肩に重くのしかかる。
絡まったハンドルにいら立ちながら、それでも一台ずつ力を入れて起こしていった。
ようやく足を踏み入れた店内は、ざわざわとした雰囲気に満ちていた。
四角いかごを持った女たちがぶつかり合いながら、雑然と積まれた商品の棚から貪欲に獲物を選びとっていく。
生きる力に満ちたその姿を見ているだけで、足がすくんだ。
けれども夕飯を作らなければならない。
母の分をタッパーに詰め、病院に持っていかねばならないのだ。
母は泣いていたという。
わたしに感謝して。
おばさんのそんなことばにも心はなぜか冷え冷えとしたままで、まるで丸きり他人の話を聞いているみたいだった。
夏の間、畑にはナスやキュウリやピーマンがあきれるほどの勢いで実っていく。長い畑を一通り歩くだけで、キイキイと鳴る大きなブリキのバケツがいっぱいになってしまう。
形のいいものは数本ずつビニール袋に詰めて、家を出る前に裏の百円野菜のコーナーに置いてくる。夕方は母が同じことをしているはずだった。
残るのは、ぐにゃりと曲がったキュウリや茶色いかさぶたのような傷ができたナスばかり。毎日それを使って食事を作る。
精肉コーナーに行くと、百グラム九十八円の鶏のモモ肉がそこだけポカーンと空っぽになっていた。
並んでいるのは、百グラムで百四十八円もするパックだけだ。
どうしよう、予定が狂った。
ほかの肉を一通り見てみるが、どれもそれ以上の値段だ。
それでは一パック二百円のイカを使うか?
でも内臓をとるのに手間がかかる。
できることなら、あまり疲れることはやりたくない。
あれこれと考えているうちに頭の中はごちゃごちゃになり、意識がぐるぐると渦を巻きはじめる。
横から中年の女性が肉のパックに手を伸ばしてきた。
ずっと同じ場所でうろうろしているわたしを、胡散臭げににらんでいる。
いけない、こんな風に突っ立ってたら、変に思われる。
わたしは深呼吸をして胸を押さえながら、かごを持った買い物客の流れをよけて、あえぐように空いている通路を探した。
ようやくひとけのない場所に出ると、一息深呼吸をした。
ビールやチューハイの缶がずらりと並んでいる。
呑んだら一時でもいい気分になれるんだろうか。
が、すぐに、以前コップに半分ほどのビールで酔って吐いたときのことを思い出し、もう一度深く憂鬱な息を吐いた。
ふと通路の一番奥まった角に、見覚えのある洗いざらしのブルーのシャツが見えて、心臓が大きく跳ね上がった。
着古してくたくたになった生地と、それに包まれたばねのようにしやかな背中。
ふわふわとタバコの香りをまきちらしながら揺れる、柔らかな髪。
体が、嗅覚が、あの時の感覚を思い出していく。
毎日処置や回診のたびに屋上に行くが、北川君に会えるのは、二回に一回ほどだった。彼はいつでも明るく穏やかで、そんなときわたしは必ず戒めのように思うのだった。
――彼は、誰に対しても明るく穏やかなのだ。
けれども今目の前にいる彼は、ぞくっとするほどいつもと違っていた。
あのあごの線は、こんなにも頑固に骨張っていただろうか。
まつ毛はこんなに暗く濃い影を落としていたのだろうか。
頬もこめかみも動かしがたいほどの固い輪郭に縁どられ、うなだれるように下を向いた首筋からは深い孤独の影が立ち上っているようだった。
彼が手にしたカゴの中には、透明な液体の瓶が入っている。
白いラベルに、異国の空気をまとった緑の横文字。
それを見つめる瞳の、重く暗い温度。
今までに見たことのない彼の表情。
足元から静かに鳥肌が立っていく。
わたしは逸る心臓をぎゅっと押さえながら、音を立てずにゆっくりと後ずさった。




