その20
「あれ、ゆっこちゃんかい。、父ちゃんの具合はどうだい?」
この小柄な白髪混じりの老婆は、いったい誰だっただろう。
病室の廊下で声をかけられ、こっそり首をかしげながら曖昧に返事をする。
「あ、はい。えっと、だいぶ落ち着いてきたみたいで」
「そうかい。まあ、ゆっこちゃんも、あんまり無理しなさんな。なあ」
「はい……」
父の入院から二週間、いろんな人に話しかけられるようになった。
考えてみれば、小さい町のたったひとつの総合病院だ。入院患者もつきそいの家族も、全員顔見知りだったとしてもまったく不思議ではない。
しかし、何年も故郷を離れていたうえに、もともと人前に出るのが苦手だったのだ。たいていはどこの誰だかはっきりとは思い出せないままに、適当に相槌を打ってやりすごしていた。
さらにどうしても釈然としなかったのは、そうして声をかけてくれる人々がおしなべて好意的なことだった。
顔を合わせれば看病の労をねぎらい、時にはおすそ分けだと言ってシュークリームを持ってきてくれる。
愛嬌のある姉と違って幼いころから可愛がられた記憶などないわたしは、よくしてもらうほどに居心地が悪く、しまいには、実はこれは町をあげてのひどく手の込んだいじめではないのかと疑う気持にさえなっていた。
が、ある日ようやくその謎が解けた。
お見舞いに来てくれた敏子おばさんが、わたしの顔をしみじみと眺めながら言ったのだ。
「ゆっこちゃん、聞いたよ。あんた、仕事やめてこっちに戻ってきたんだって?」
「え」
とっさにどう反応していいかわからず、わたしは視線を落として目をパチパチさせた。
「あんたも、昔はあんだけ東京東京って言ってたのによ。いくら親の病気って言ったって、よくまあ、思い切ってくれたなぁ」
「いえ……」
あれだけ大見えを切って出て行った一部始終を、この人は知っているはずだ。わたしはうつむいたまま、小さく唇を噛んだ。
おばさんは、そんなわたしをいたわるようにそっと肩に触れてきた。
「まあな、いろいろ思うことはあるのかもしんねえけどな、でも母ちゃん、ずいぶん喜んでたよ」
「いや、それは……」
勝ち誇ったような母の顔を思い出すだけで、たまらなく苦々しい気持ちになった。おばさんも、わたしが顔をしかめて黙ってしまったので、そのあとのことばを言いあぐねているようだった。
が、短い沈黙の後、ためらいがちにこう口にした。
「……これはまあ、内緒だけどな。母ちゃんな、ゆっこがよくやってくれるって、この間見舞いに来たときには泣いてたんだよ。父ちゃんの下の世話まで文句も言わずにやってくれてる、まさかここまでやってくれるとは思ってなかったって」
「え……」
わたしは耳を疑った。
「ほら、ああいう人だからさ、いくらあれでも、まさかそんなふうに言うなんて、わたしもびっくりしちゃってね」
それでもまだ怪訝な顔をしていたのだろう、おばさんが畳みかけるように言った。
「まあ、あんたにはそんなところはあんまり見せないかもしれないな。でもな心の中ではやっぱり済まないと思ってんだよ。親って、そういうもんなんだよ」
そう言ってわたしの手を取り、うっすらと涙ぐみながらおばさんは言った。
「わたしからも礼を言うよ。本当にありがとうな、ゆっこちゃん」




