その2
アパートに戻ったときには、すっかり夜が明けていた。
となりの部屋から遠慮がちな包丁の音が響いている。
何度か、赤ん坊を抱っこして作業着姿の夫を見送る若い妻の姿を見かけたことがある。そのたびわたしは、まっとうな暮らしのまぶしさにおもわず目を伏せた。
あの妻は、一日中部屋で赤ん坊をあやし乳を与えながら、何度となく聞いていたはずだった。男に体を開くわたしの声を、爪の音を。
男の髪にしみついた盛り場のすえた匂いと、毛穴が開いてぎらぎら脂ぎった肌。嫌悪しながらも、それに身をまかせることでこの一年間生きのびてきた。
家具らしい家具もないこの部屋で、唯一本棚代わりにおかれた白いカラーボックス。
男はいつもわたしに背を向けたまま、儀式のように静かに指輪をはずしてその上においた。そして若いというだけのこの体をひたすらむさぼりつくしたあとには、空っぽになった何かをけむりで満たすかのように背中を向けてゆっくりと一服するのだった。
わたしは大きく息を吸い、男が置いていった箱からまだ半分ほど残っているタバコを取り出した。
ドクン、ドクンと胸の鼓動が大きくなっていく。
――やるの? 本当にいいの?
――何を今さら……もうとっくの昔に決めていたことじゃないか。
二つの心が激しく葛藤する。
渦巻く不安に感じるめまい。
なのに手だけが小刻みに震えながら、勝手に動いていく。
まるでもう、自分の体ではないみたいに。
そう、それでいい。
怖くなんかない。
立ち止まるな、
何も考えるな。
何度考えたところで、行きつく答えは同じなのだから。
迷いを振り払うように深呼吸をすると、震える手で一本のタバコをつかみ、ぐいっと口に押し込んだ。