その19
その日、しばらくぶりに父の容態は落ち着いていた。
熱も下がり、便意を訴えることもない。
朝の光の中で静かに目を閉じた父の姿は、余分なものをすべて削ぎ落とした修行僧のように神々しくさえあった。
わたしは神に裁かれる罪人のように身を小さくして、病室の隅でじっと息をひそめていた。
しばらくすると、ガラガラと回診車を押してナースがやってきた。いつものようにコーラを買って、逃げるように屋上に向かう。
「あ」
「あれ、井原さん!」
灰色の柵にもたれていたのは、タバコを手にした北川君だった。
細長くごつごつとした指。
ふわりと下がった前髪の間から、いたずらっ子みたいな瞳がのぞいている。
わたしはあわてて、手にしたコーラの缶を後ろに隠した。
「いつも処置の時って、ここに来てる? あれから一度も見かけなかったからさ、避けられてるのかと思った」
笑顔の後ろで、真っ白いシーツがはためいている。
避けられていると思っていたのは、わたしのほうだった。
毎日屋上に来るたびに、こっそり期待していたのだ。
けれど考えてみれば、処置のナースが回ってくる時間は部屋ごとに違う。そもそもわたしは、彼が誰の付き添いで何階のどの病室にいるのかまったく知らなかった。
「避けるなんて、そんな」
あいまいに返事をしながら、そっとうつむく。
と、北川君が小脇に分厚い本のようなものを抱えているのに気づいた。
彼はわたしの視線を辿り、ああ、という顔をした。
「まずいな、タバコ。早坂さんには、内緒ね」
「いえ、そうじゃなくて……」
「え? ああ、こっち?」
『財務会計論』と書かれたその本は、だいぶ読み込んでいるのか表紙がよれてめくれ上がり、フセンがびっしりと貼られている。
「なんか、難しそう」
「んー、まあね」
そう言いながら北川君は煙の向きを確かめると、体を少しずらしてもう一度タバコをくわえた。
「し、仕事で?」
口に出してから、立ち入ったことを聞いてしまったと後悔した。
けれど彼は、さして気にとめた風もない。
「そう。いや、正確にはまだ仕事じゃないか。今のうちに資格をとっておこうかと思って」
「えっと、あれ、じゃあ、今は?」
「ああ、今はね、ふふ、正真正銘のプータロー」
彼は、今日の朝ご飯はトーストだったというのと同じ調子で、あっけらかんと言ってのけた。
「あ、ああ、ご、ごめんなさい」
「ん? なんであやまるの?」
北川君は心底不思議そうな顔をした。
「だって、そんな、言いにくいこと……」
あたふたするわたしを見て、彼はふんわりと笑うように唇を少し開け、細くゆっくりと煙を吐いた。
それまで透明だった彼の息が姿を現し、ゆらゆらと青い夏の空に消えていく。
「別に、言いにくいことじゃないよ。ばあちゃんの看病ついでに勉強もできるし、ちょうどいいでしょ? うふふ」
曇りのない瞳。
同じ無職でも雲泥の差だ。急に自分が恥ずかしくなる。
「そうなんだ。すごい、ちゃんと目標があるんですね。あ、違う、敬語はだめだ、あ、あるんだね」
北川君が嬉しそうにくすくすと笑う。
「やっぱり真面目だなあ、井原さん。でもさ、ほんとにすごいのはあなたのほうだと思うけど」
「え?」
「早坂さんが、ほめてたよ。センセイは相変わらず、バカみたいに一生懸命やってるって」
「バカみたいって……」
「ああ、ごめん、気にしないで。それ、彼女一流のほめ言葉みたいなもんだから。
でもほんと、みんな言ってるよ。せっかく東京で働いてたのに、親の看病のために帰ってくるなんて親孝行な娘さんだって」
「そ、そ、そんなんじゃ……」
何をどう説明したらいいのかわからずもごもごと口ごもるわたしに、彼は惜しげもなく極上の笑みを向ける。
「うふふ、ほーんと、そういうとこ変わってないねぇ」
心臓がドクンと跳ね上がる。
彼以外の誰かに言われたら、きっと皮肉に感じてしまうだろうセリフ。
それがなんの嫌みもなく心に入ってくる。
人間いったいどうしたら、こんな邪気のないオーラを出せるのだろう。
ああそうか、この人はきっとたっぷりの愛情を注がれながら育ってきたのだ。
ひまわりみたいに、たくさんの日差しを一身に浴びて。
そう、家族をすっかりこじらせたわたしとは違って。
とそのとき、急に風が変わった。
彼の手から流れてきた煙が、鼻先をかすめていく。
無意識のうちにその香ばしいにおいを深く吸い込んで、ふと気づいた。
胸が高鳴っている。
この人のことをもっともっと知りたい、と。
わかっている。
わたしに笑いかける男は、いつだってみんなに笑いかけているのだ。
わたしに優しい男は、当たり前のようにみんなに優しいのだ。
勘違いするな。
傷つきたくなければ、この引力にからめとられてはならない。
わかっている。
そう、そんなこと頭ではいやというほどわかっているのに、心が流れ出すのをどうしようもなく止めることができない自分がひどく情けなかった。




