その16
その16・17には、介護に関するグロテスクな描写が出てきますのでご注意ください。
翌朝病院に行くと、母は目の下に深いクマを作り、すっかり疲れたようすで椅子に座り込んでいた。
髪はぼさぼさで、花柄のエプロンはだらしなく歪んでいる。
父はゴム製の大きな氷枕をあてがわれ、上気した頬でぐったりとベッドに横たわっていた。
カサカサに乾いた唇と焦点の合わない潤んだ瞳。
かなり熱が高いに違いないことはすぐにわかった。
なのに母はいつもと同じように帰り支度を始め、さっさと病室から出て行こうとする。
「え、わたし、どうしたらいいの?」
知らない場所に置いてきぼりにされる小さな子供みたいに、心細くて声が震えた。
「あ? どうって、何かあったら、看護婦呼べばいいだろ」
何かって、どんな?
心臓がドクンと音を立て、息が荒くなる。
エプロンの裾をつかんで母を引きとめたい。
けれど実際はなにもできないままで、母はあっという間に荒々しくドアの向こうに去って行った。
泣きたい気持ちを押さえつけておそるおそる振り向くと、ベッドの上の父は苦しそうに顔を歪め、不自然に体をよじっている。
どうしたらいいのかわからず、おろおろしながら「大丈夫? 苦しい?」と何度も頼りなく繰り返し、玉のように吹き出す汗をただ拭き続けた。
大丈夫なんだろうか。
ナースコールを押したほうがいいんじゃないだろうか。
こんなことくらいで呼ぶなって言われるだろうか……。
ぐるぐると同じことを考え続けるだけでなにひとつ判断できない自分がもどかしく、情けなかった。
どのくらいの時がたったのだろう、父が急にぐっと歯を食いしばった。そしてほどなく、
「あ、ああーっ」
という声と同時に、ぶちゃっという音が聞こえた。
ぷーんと病室中に漂う臭い。
父は急にぼろきれみたいに脱力し、熱で潤んだ目に涙を浮かべてこっちを見た。
「我慢しようと思ったんだけどよぉ……」
父の声は小さく震えていた。
昨日までは、おぼつかない足取りながらも自分でベッドから降り、病室のトイレで用を足していたのに。
頭の中が真っ白で、どうしたらいいのか見当もつかない。
できることならすぐさまその場から逃げ出したかった。
「あ、いや、あの、えっと……ああ、そっか、看護婦さん呼べばいいんだよね」
ようやく思いついてナースコールに手を伸ばした。
太い眉をしかめた父が、いまにも泣き出しそうに見えてハッとする。
うろたえてはだめだ、なんでもないふりをしなくては。
やってきたのは、千尋だった。
「はーい、井原さん、またお腹痛くなっちゃった? 大丈夫ですよ。すぐきれいにしますからね」
そう言ってピンクの唇で微笑むと、ぐっとわたしを見据える。
「昨夜からまた熱が上がってね、便もかなりゆるいから、間に合わなかった時のために紙オムツあててあるの。一度で覚えてね」
「え、何を?」
千尋はそれには答えないまま、、「失礼しまーす」と声をかけると慣れた手つきで父の寝巻をはだけ、白い紙オムツに包まれた下半身をあらわにした。
思わず目をそむけたとたんに鋭い声が飛んできた。
「ちゃんと見てて」
そう言って千尋はオムツを少し下にずらすと、ゆるい便にまみれた局部をきれいに拭き、汚れたおしりふきとオムツを器用に丸めてテープでとめた。そして父の体を横に倒しながら、テキパキと新しい紙オムツをあてた。
そうしてあっという間に一通りの作業を終えるとこちらに向き直り、呆然としているわたしを見てあきれたように言った。
「しっかりしてよ、井原センセイ。次からはお願いね」
「そ、そんなこと言われても、やったことないし……」
千尋は少しムッとした顔をした。
「だから?」
カーッと耳が熱くなった。
「うう、悪い、また、出そうだ……」
父が消え入りそうな声で言う。
「あ、え、もう?」
うろたえるわたしに力のこもった視線で合図すると、千尋はさっさと病室を出ていった。




