その15
何度も一人で帰れると言ったのに、どうせ同じ方向だからと北川君は半ば強引にわたしの自転車のハンドルを握った。
「はい、後ろに座って、しっかりつかまって」
「北川君の自転車は……」
「僕? 僕はいつも、走ってきてるの。ちょうどいいトレーニングでしょ? ほら、危ないからちゃんとしがみついてよ」
指先でシャツをつまむだけのわたしを、北川君が笑いながら叱る。
「そう、腕を回して」
「え、でも……」
「遠慮しないで、もっと体くっつけて。大丈夫だよ、変な気なんて、おこさないから」
そう言って彼は楽しそうに笑う。
わたしはためらいがちに腕を伸ばし、それでも最後には思い切って目の前の背中にぴったりと体をつけた。
薄いシャツ越しに彼の確かな体温を感じ、こっそりと細い溜息をつく。
「じゃあ、行くよ」
北川君はそう言って、体を軽く揺らしながらペダルをこぎ始めた。
子どもの頃は、まだ舗装されていなかったこの道。
田んぼだらけだった周囲の風景も、すっかり変わってしまった。
東西に走る道の南側はすっかり住宅地になり、しゃれたレンガ作り風の街並みが広がっている。が、道の反対側に目をやると、まるでそこだけ取り残されたかのように昔のままの光景が広がっていた。
水色のフェンスはあちこち錆びて歪み、その向こうには雑草に囲まれて用水路が流れている。見ると、網を持った子どもたちが押し合うように中をのぞきこんでいる。
「まだザリガニがいるのかな」
北川君がぽつりとつぶやいた。
そうだ、いつも学校帰りには、必ず男子があそこでザリガニを捕まえてたっけ。
そのとき、鼻の先にふわっとタバコのにおいが流れてきた。
「けっこう、強烈なお母さんだよね」
なんと答えていいかわからず、曖昧に笑う。
あんな母でも少しは心配してくれるんじゃないかと、わずかだが期待していた自分がバカみたいに思えた。
鼻の奥がつんとして、北川君の体に回した腕に、思わず力が入る。
「気にすることないよ。親ってさ、自分が親だっていうだけで、子どものこといくら傷つけてもいいって思ってたりするから」
北川君はさらりと言うと、ふふ、と軽く笑った。
――それじゃあなたも、いくらでも傷つけられたことがあるの?
そう聞いてみたかったけれど、口には出せなかった。
ペダルを踏む彼の体が、同じリズムでかすかに動く。
右、左
右、左
単調なリズムの繰り返しが、遠い記憶を呼び起こす。
あの家の薄暗い食卓で、祖父と父は毎日のように晩酌をした。
父はいつでも前を向いている。
なのに目だけはずっと、すぐ横にいる祖父を鋭くにらんでいた。
身がすくむほどの憎悪がこもった視線の先で、祖父は何も気付かずおいしそうにちびちびと酒を飲み、つまみの皿をつつく。
わたしは父の向かいの席で、毎晩毎晩身じろぎもせずにその光景を見ていた。
怖かった。
何が怖かったのかは、今でもよくわからない。
ただ、あの光景から逃げ出したくてわたしは東京を目指したのだと、そんな気がしてならなかった。
果たしてわたしは、上手く逃げられたのだろうか。
それとも追いかけてきた「それ」に、すっかり囚われてしまったのだろうか。
ときおりふと湧き上がる重苦しい疑問。
「どうしたの? また気分悪い?」
気がつくと、北川君の腰に回した腕にひどく力が入っていた。
「あ、ごめんなさい……大丈夫です」
「もう、『です』はいらないって」
「あ、はい」
「だから、はいじゃなくて、うん」
「……う、うん」
「そうそう、その調子」
そう言って彼は鼻歌を歌い始めた。
なぜだろう。
でたらめに聞こえるそのメロディーはとても楽しげで、暗くよどんださっきまでの光景をぐんぐん追い払っていく。
――彼がわたしに、新しい何かを運んできてくれる?
夕暮れの風に吹かれながら、なぜかしきりにそんな予感がしてならなかった。




