その14
北川君は、六年三組にやってきた転校生だった。
あと数週間で夏休みというこのうえなく中途半端な時期に現れ、二学期がはじまったときにはもういなくなっていた。
それでさしたる印象もないままに、わたしたちの記憶からあっさり消えていたのだった。
そう言われてみれば、ほんのかすかに覚えている。もやしのようにひょろっと体をくねらせて黒板の前に立ち、消え入りそうな声で挨拶をした男の子。
記憶の中のその姿は、ついさっきわたしを背負ってここまで運んでくれた男性と同一人物とは、とても思えないような弱々しさだった。
そう、あれはまだほんの小一時間ほど前なのだ。
遠のく意識の中で大丈夫かと声をかけられ、気がついたときにはずっしりと温かい背中の上にいた。
「いいです。わたし、重いし」
そう言ったつもりだったが、ちゃんとことばになっていたのかどうかはわからない。
「いいから、黙ってて」
北川君はそう言って、少し息を切らしながらひたすらに階段を下りて行った。
ゆらゆらと、ひと足ごとに体が左右に揺れる。
柔らかくうねった髪からほのかに立ち上る、香ばしいタバコのにおい。
あの男とは違うにおい。
朦朧とした意識の中で、その印象だけがやけに鮮明に残っていた。
「井原センセ、そういえば夕方お母さんと交代するんだっけ? わたしちょっと行ってくるわ、心配してるだろうから」
わたしがようやく体を起こせるようになると、そう言って千尋は処置室を出ていった。北川君は座っていた丸椅子をくるりと回すと、いたずらっ子のように少し口をとがらせた。
「あーあ、それにしても、井原さんまで僕のことすっかり忘れてたのは、かなりショックだな」
そうだ、六年生の一学期と言えば、わたしは確か学級委員だったはずだ。校内を案内したり、何かと面倒を見ていたはずなのだ。
「なんか、全然雰囲気変わってたから……」
「そうだよね、子どもの頃の僕って、これ以上ないってくらい影薄かったもんね」
明るい色の瞳をくるりと動かしながら、北川君はこともなげに答える。
「そんな……」
「いいよ、別に気を遣わなくて。そのくらい、自分でちゃんとわかってるから」
そう言って笑顔を作る北川君に、これ以上何を言うのもわざとらしい気がして、わたしは押し黙って床を見つめた。
子どものころの自分が忘れられているのがショックだと言うけれども、それでは彼は、あの頃のわたしを覚えているのだろうか。
覚えていてほしくない。
できることならば、すっかり忘れていてほしかった。
北川君だけでない、誰の記憶の中にもかけらさえも残っていてほしくなかった。
昔の自分も、そして今の自分も。
今、この瞬間にだって、消えられるものなら消えてしまいたい。
ふと死にそこなったあの時の光景が浮かび、思わず顔をしかめる。
そのとき、急に北川君がこちらに向き直った。
「ねえ、何考えてるの?」
心の中を見透かされたような気がして、ドキッとした。
「あ……いや……」
とっさに返事が思い浮かばず、口ごもる。
そんなわたしを見て北川君は、今度は本当に嬉しそうに、口の両端を上げてニッと笑った。
「井原さん、やっぱりいいなあ、変わってないなあ」
え、どういうこと、と聞き返そうとしたそのとき突然、母が憮然とした表情で乱暴にドアを開けて入ってきた。そして力なくベッドに座るわたしを見るなり、思い切り顔をしかめて吐き捨てるように言った。
「なんだよ、こんなんじゃしょうがねえな。ゆっこはまったく、気合いが足りねえんだ」
心臓が凍りついていく音が聞こえるようだった。
「井原さん……由希子さんも慣れない看病でだいぶ疲れてるんだと思いますよ。長期戦ですから、みなさんあまり無理しないように、気をつけてくださいね」
千尋が、やんわりとたしなめてくれた。
しかし母はそれを聞くと、さらに眉をあげてきつく言い捨てた。
「無理しないで病人の世話なんかできるわけねえだろ。誰も代わりにやってくれやしないんだから」
千尋と北川君の、驚いたような、そして憐れむような視線。
わたしはそれを避けるようにうつむいて、そっと唇をかんだ。




