その12
うつむきがちに廊下を足早に歩いていくと、誰かにぶつかりそうになった。
「すみません」
小さな声で謝り、逃げるようにその横をすり抜ける。
目の前がにじんで足を踏み外しそうになりながら、なんとか屋上にたどりついた。
いつものように階段室の横に座り込み、息を整える。
――あっこは、我慢の子だからな
知ってる。
父は、わたしより姉のほうが好きなのだ。
父に似て忍耐強く、いつでも周囲への気配りを怠らない姉。
誰もが認める、きちんときれいな人生を描ける女性。
――ゆっこはまったく、しょうがねえなぁ。
そうつぶやいた、あのときの父の顔。
所詮わたしは、父を笑顔になどできないのだ。
――あっこは頑張り屋でこんなに我慢強いのに、ゆっこはどうしてこんなに頑固で、むずかしいんだ。
しょうがねえなぁ。
ほんとにどうしようもねえなぁ、ゆっこは。
実際に面と向かって言われたわけでもないのに、心の中の父はいつもそうやってわたしを責め続ける。
いや、父だけではない。
誰も彼もがわたしを見ればうんざりとため息をつくのだ。
――どうしてこんなことがわからないの。だからそういうことじゃなくて、普通に考えたらわかるでしょ? おかしいんじゃないの?
ああ、はいはい、お勉強だけは上手なのね。井原センセイ、もう掃除終わっていいですかぁ?
セ・ン・セ・イやめとけそういうこと言うとまた告げ口されるぞだって見てるとイライラするんだもんおい見ろよえこひいきそんなことどうでもいいじゃんバカじゃないの気持ち悪い……
あとからあとから湧き出してくる痛い記憶。
大声で叫びたい衝動に駆られ、必死に口を押さえる。
ぺたんと座り込んだまま動けなくなったわたしに、じりじりと西日が照りつける。
屋上はこの時間になっても、足元のコンクリートからの熱気でかなり暑い。
あっという間に体じゅうが汗ばんできた。
カタン、と、どこかで足音が聞こえたような気がした。
ああ、こんなことをしている場合じゃない。
早く洗濯物を取り込んで、部屋に戻らなければ。
そうだ、もうすぐ母が来る。
弱みを見せてはならない、何でもないような顔をしなければ。
泣き出しそうなままの自分にそう言い聞かせながら、膝を手のひらで押さえて勢いよく立ちあがろうとした。
が、そのとき、胸の奥に妙な息苦しさを覚えた。
それがだんだん喉の奥を突き上げるような感触に変わっていく。
それでもかまわず立ち上がり歩きだそうとしたが、なぜだか足が前に進まない。
やがてしきりに生あくびが出始めた。
目の前で、何かがチカチカと飛んでいる。
まずい、これはまずい。
体だけが遠くにいってしまいそうな違和感。
汗が噴き出してくるが、さっきまでのものとは違う。
ああ、これは冷や汗だ。
胸のあたりを丸ごとどこかに持っていかれたように、体を支えていた何かが崩れて立っていられなくなる。
目も口も手も足もまったく力が入らず、冷たい汗がひっきりなしに流れている。
周りの景色が、スーッと暗くなっていく。
と、そのとき、耳元で誰かが叫ぶ声が聞こえた。
次の瞬間、温かく力強い誰かの手が、わたしの肩をがっしりとつかんだような気がした。
薄れていく意識の中で、ほんの一瞬、見知らぬ男のまっすぐな視線と、逆さまの夕焼け雲が見えた。




