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その10

 翌日の手術は、無事に成功した。


 けれども父は何日もの間、体のあちこちにチューブや針が入って満足に寝がえりも打てず、高熱にうなされながらも水も飲めないままだった。


 わたしと母は、一日中交代で父の世話をした。

 昼間は私がつきそい、夜は母が病室に泊まり込んだ。



 苦しそうな顔でじっとベッドに横になっている父は、まるで怒っているかのように見えた。

 眉間のシワがわたしをなじり、沈黙がわたしを責めているように思えてならず、父の前では息をするのさえはばかられた。


 本当はこの人は、すべて気づいているのではないか。

 不肖の娘がすっかり道をふみはずし、親にも世間にも顔向けできないような人生を送っていることに。


 そう思うと、この狭い空間は牢獄のように息苦しくなった。

 いたたまれなさにたびたび父の額の汗を拭き、日に何度も枕のタオルを替える。

 そしてナースが処置にくると、逃げるようにひとけのない屋上に向かった。




 空調の効いた室内から一歩外に出たとたんに、容赦ない夏の光が照り付ける。それを避けるように階段室の横のわずかな日陰に座りこみ、ダイエットコーラのプルトップを開ける。


 プシュッという小気味よい音。

 口をつけると、ピリピリと甘い液体が渇いた舌を潤す。

 喉を通っていくときの心地よい刺激。


 この快感に浸っている間だけは、自分に対する嫌悪も先の見えない不安も考えずにいられた。

 中身が永遠になくならなければいい。

 そう強く願いながら何度も何度も缶を傾ける。


 けれどもそうして飲めば飲むほど、のどの渇きは癒えるどころかますますひどくなっていく。



 そんなときは、決まって子どものころを思い出した。


 学校から帰ると、家の中はいつも静まり返っていた。

 両親は野良に出て暗くなるまで帰らなかったし、五つ上の姉の帰りはずっと遅く、祖父はほとんど奥の部屋から出てくることがなかった。


 台所にはいつも大きなブリキの缶が置いてあった。

 入っているのはたいてい、固い手焼きせんべいか英字ビスケットだ。


 板張りの床にペタンと座り込み、無造作につかんだビスケットを口いっぱいにほおばる。

 ガシガシと噛み砕くたびにほんのりと乾いた甘さが広がって、その瞬間だけは、からかわれたくやしさも、仲間はずれの寂しさも、うっとおしい母の小言も、すべて忘れていられた。

 けれども口の中が空っぽになった瞬間に、心の中にもまたポッカリと穴が開く。


 もう少しだけ、あと一口だけ。


 自分自身に言い訳をしながら、一度は蓋をした缶を何度も何度も開けた。


 風船みたいにパンパンになっていくお腹。

 でも不思議なことに、いくら食べても焼け付くような空腹感はなくならず、どんどん食べ続けてしまう。



 ふと姪の美咲の姿が目に浮かんだ。

 ぽっちゃりとした体つきは、あのころのわたしによく似ている。

 それだけではない。固く真っ直ぐな瞳も、強情そうな口元も。


 ――まったく、美咲ちゃんは、むずかしい子でしゅねぇ。


 何気なく母が口にしたそのことば。

 それは、わたしがいつも言われていたことだ。

 何かというと聞き分けがよい姉と比べられ、母に激しくなじられた。


 ――どうしてわかんねえかな。まったく、なんでゆっこはそんなに頑固なんだか。あっこはそんなんじゃなかったのに。



 父はいつも、黙って見ているだけだった。

 一緒になってわたしを叱ることはなかったが、その代わりかばってくれることもなかった。



 ただ一度だけ、父がその沈黙を破ったことがある。


 あれは確か、小学校に入ったばかりのことだった。

 父の誕生日に贈る似顔絵を描こうとしていたわたしは、姉の絵具をこっそり借りることを思いついた。

 父がいつも農作業のときに着ている灰色がかった水色の作業着は、クレヨンよりも絵具のほうが上手く塗れるはずだと思ったのだ。


 その思いつきはわたしをとてもわくわくさせた。

 上手く描けたらきっと父は、「これはすごいな」と喜んでくれるに違いない、そんな場面まで想像し、ひとりほくそ笑んだ。


 けれどもクレヨンしか使ったことがなかったわたしは、こっそりと姉の絵具を引っ張り出したはいいものの、量の加減がわからずに青と白と黒のチューブの中身をほとんど全部使ってしまったのだ。

 運の悪いことに、次の日は学校の写生大会だった。


 今までずっと、写生会のたびに必ず金賞をもらっていた姉は、「小学校最後だから、がんばろうと思ってたのに。明日ロクな絵が描けなかったら、ゆっこのせいだからね!」と泣きじゃくった。

 けれどもわたしは、母にいくらとがめられても、頑として謝らなかった。


 やり方はまずかったかもしれない。

 でもわざとじゃない。

 ただ、父を喜ばせたかっただけなのだ。

 父はわかってくれてるはずだ。


 なぜだかわたしはそのとき、何の疑いもなくそう思い込んでいた。


 だが父はその日、いつものように一部始終を黙って見ていたあとに、おもむろに深くため息をつき吐き捨てるように言ったのだ。 


 ――ゆっこはまったく、しょうがねえなぁ。 


 時が凍った気がした。




 そのあとのことはまったく覚えていない。

 なのになぜか父のうんざりした声と暗く重い瞳の色だけは、十年以上経っても記憶から消えることはなかった。


 澱のように胸の奥底に沈むその光景はふとした拍子に鮮やかによみがえり、今もなおじりじりとわたしを苦しめるのだった――。

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