長靴をはいた猫
ランダムお題小説です。【特徴、長靴、悩み】
長靴をはいた猫、という映画を昔見た。
今ではストーリーすら定かではないが、陽気に喋る猫が時に奇抜に、時に残酷に振舞う姿が記憶の隅に残っている。
その日の天気は悪く、冷たい雨が人通りの少ない路地裏を濡らした。降り注ぐ雨粒は軽く、幾重にも連なって地面を流れる。
その路地裏に沼津浩二は一人で立っていた。黒い傘を広げ、胸ポケットから煙草を一本取り出す。手で風をよけるようにして火を点けると、沼津は静かに煙を吸い込んだ。
目の前には一匹の太った白猫がいる。
それも何故か白猫は長靴を履いていた。誰かの悪戯なのか、赤ん坊用の赤い長靴を後ろ足に履き、ダンボールをひっくり返しただけの簡単な雨よけの下で身体を丸くしている。
ふと、白猫が顔を上げて沼津を見た。じっと顔を覗き込んだかと思うと、また丸くなってしまった。
でっぷりと太った体系から、食う事には困っていないと分かる。
この白猫の事が少し気になって、沼津は翌日の夜も会社帰りにその場所を訪れた。
相変わらずの雨の中、その猫はやはり丸くなっていた。
沼津は屈んでダンボールの中を覗き込む。パンの欠片らしきものと、サバの缶詰が見えた。
猫の身体が濡れていなかった事、そしてサバの缶詰が置かれている事から、誰かが餌をやっているのだと分かった。
その翌日は晴れだった。昨日までの雨が嘘のように空は広く、風は温かかった。仕事が終わると沼津は白猫のいる路地裏に向かった。
しかし、白猫はいなくなっていた。
それでどうなる訳ではない。そのはずだった。
沼津はその場で煙草をふかし、言いようの無い感情を抱きながら帰路についた。
それから一週間と少し経ったある日曜日の事。近所の滑り台がある公園で、あの白猫を見つけた。赤い長靴という特徴があったので、遠目でもすぐにあの猫だと確信できた。
白猫の前には中学生ぐらいの女の子がしゃがみ込んでいる。沼津は近づいて、女の子に声をかけた。
「この猫に餌をあげてたのは、キミか?」
女の子は首を横に振って、
「違うよ。たぶん、色んな人があげてると思う」
「どういうことだ?」
「知らないの? この猫に餌を上げて悩みを聞いてもらうと、お礼にそれを解決してくれるんだよ」
なんともメルヘンな話だな、と沼津は思う。返答に困っていると、女の子は呆れたような顔で続けた。
「もちろん本気で信じてる人なんていないと思うよ。でも、神社とかのお参りだって同じでしょ。お願いする事で、気持ちの整理をするの」
それから少しの間、沼津は女の子と話した。と言っても、喋っているのはほとんど女の子だったが。
今町内ではこの白猫の事が噂になっており、ちょっとしたブームと化しているらしい。
もっとも、この町に住んでいる沼津はこの猫の噂自体初耳だったが。
「見かけただけでもラッキーなんだよ」
最後にそう言って女の子は帰っていった。沼津は白猫の長靴に目をやる。よくよく見てみると、白猫の長靴には傷がついていなかった。
普通こんな物を履かされたら何とか脱ごうとして引っかき傷が付く。
それが無いという事は、
「一度も長靴を脱ごうとしていないわけか」
思ったよりずっと頭の良い猫なのかもしれない、と沼津は思った。
長靴をはいた猫の映画を最近また見直した。
童話なだけあってストーリーは何と言う事もなかったが、物語に出てくる猫の手腕には感心した。知恵を使って飼い主を一国の姫と結婚させ、自分も裕福に暮らすという終わり方だった。
それからは数週間に一度、あるいは数日に一度のペースでその白猫を見かけた。
それは沼津にとって少しだけ楽しみになっていた。その白猫を見かける時はいつも違う人が供え物をするように餌を与えていた。
猫はでっぷりと太った体系を維持したまま、長靴の音を鳴らして歩く。
暮らしに不自由もなく、気ままに暮らしている。
それからまた数日後。
出会った時と同じような雨の夜、帰りの路上で沼津は白猫を見つけた。
白猫は車に轢かれていた。
白い体に赤い染みが出来ており、痛々しい様相で倒れている。
既に息は無く、轢かれた衝撃で赤い長靴が外れていた。
「あっけないな」
一人呟く。
生きる事に比べて、死ぬ事のなんとあっけない事か。積み重ねてきたものも、得てきたものも、消える時は一瞬だ。
沼津は白猫を近くの土手に生めてやる事にした。
なんとなく、白猫のその姿を他の人に見せるべきではないと思ったからだ。
簡素な白猫の墓の前で、沼津は煙草に火を点けた。
吐き出した煙は白く細く、雨の中にゆるやかに溶けていく。
生き物はいくらでも死ぬ。
けれど、
「お前は、誰かの記憶に残った」
一口だけ吸った煙草を白猫の墓の上に立てると、沼津は静かにその場を後にした。
ここまで読んでくださってありがとうございました。