シン 11
「…先に帰る。」
子供が消え去った場所をしばらく無言で見つめていると、溜息混じりのどこか疲れたような声で、シロがぼそりと呟いた。
先ほどまでこの真っ白な空間を支配していたものも消え、二人と一匹を包むのは現実にはあり得ないほどの静寂だ。
未だ身を寄せ合ったままのリュウキとシンは、シロの呟きに促されるように真珠色の騰蛇に視線を向けた。
「ちょっと待て、私たちも帰るぞ。」
シロの呟きに、何を言っているんだとばかりに眉を寄せながら言ったのはリュウキだ。
彼女の言葉を聞いたシロが、小さな金目できょろりとシンを見つめ、再びリュウキへ視線を戻す。
「お前はちょっと話してこい。」
「は?」
言いながら、シロがくるりと身を翻す。
言葉を受けたリュウキは、意味が解らないとばかりに首を傾げているが、シロは構うことなく上方の空間を仰いだ。
「あ、こら!シロ!!」
途端、背景に呑まれるように消えていくシロに、シンから身を離したリュウキが焦ったように手を伸ばすも、彼女の手はシロに届かなかった。
ぐっと空気を握り込むように丸めた拳を見つめ、溜息を吐く。
「戻り方は判るのか?」
そんな彼女の背後から声を掛けたのはシンだ。
彼はゆっくりとリュウキに近づくと、シロの動きを辿るように上方を見上げた。
再び溜息を吐いたリュウキが、背後のシンを振り返る。
「あぁ、大丈夫だ……多分。」
「……多分か。」
「大丈夫だ。」
曖昧な言い草にシンが眉を顰めるも、次いで言い直したリュウキをしばらく訝しげに見つめると、自分にはどうしようもないと思ったのか納得したように小さく頷く。
「まぁ、お前の目付役にもらったせっかくの好機だ。ここらで一つ確認しておこう。」
そのまま腕を組んで呟くと、リュウキを見据えてにやりと笑った。
どうやら彼には、シロが二人を残した意味が解っているらしい。リュウキはどこか得心がいかないとばかりに眉を顰めた。
「何を企んでるんだ?」
訝しげに目を細めたリュウキがシンを見上げる。
「いや、な。」
にやり。
「…なんなんだ。気持ちの悪い奴だな。」
低い呟きは心からの言葉だろう。しかし、シンの笑みは変わらなかった。
「まさか、俺の腕も言葉も素直に受け入れてくれるとはな。」
リュウキの顔が、更に訝しげに歪む。
しかし、シンはそれをものともせず、己を見上げるリュウキの白い頬にそっと掌を添えた。
彼女は全く拒まない。
翡翠の眼が僅かに細められ、がらりと雰囲気を変えたシンが柔らかな微笑を浮かべる。
突然の変化に、リュウキが僅かに身動いだ。
「…どうした、頭でも打ったか?」
照れ隠しなのか、本当に気付いていないだけなのか。
おそらく後者で雰囲気に呑まれているだけなのだろう、僅かに頬を染めたリュウキに、シンが小さく笑った。
吐息で笑う彼を見たリュウキが、慣れない雰囲気に我慢できず、頬を赤く染めたままシンを睨み上げる。
「いったい何なんだ!!言いたいことがあるなら言え!!」
彼女にとってはむず痒くて仕方ない空気を払うように、頭を振って頬に添えられたシンの手から逃れながら、リュウキが喚く。
そのまま距離を取ろうと身を引いたリュウキを、しかしシンは逃すことなく両の腕で捕らえた。
驚いて身動ぐリュウキに構わず、シンが逞しい腕を彼女の小さな背に回して一気に己の方へと引き寄せる。
思わぬ方向に引かれたリュウキが体勢を崩すと、そのまま前に傾ぐ勢いでぼすっと音を立ててシンの腕の中へと収まった。
あまりのことに状況が理解できていないのか、動きを止めたリュウキは目を瞬かせるばかりだ。
しかし、身を包む熱とはっきりと聞こえる鼓動に、己の状況を理解する。
途端、彼女の顔は真っ赤に染まり、慌てたように身を捩りながらシンの胸に両手をついて力を入れた。
しかし、身体と身体に僅かな空間はできるものの、己の身体を抱き込む腕はびくともしない。
「シン!!この馬鹿離せ!!」
「嫌だ。」
「嫌じゃない!!子供かっ!!」
「さっきは大人しく抱かれてただろうが。」
「抱っ!?阿呆がっ!!変な言い方をするな!!ちょっと手を借りてただけだ!!」
「阿呆はお前だ。あれだけしっかり抱いて…」
「だから変な言い方をするな!!それにしっかり拒否しただろう!!」
頭突きで。
そう叫ぶリュウキに、痛みを思い出したのか、シンが僅かに眉を顰める。
「…あれは単に苦しかっただけだろう?」
「むっ…。」
「その後、力を加減したらしっかり受け入れていたではないか。」
「あっあれはっ…お前がおかしいから…っていうか、お前が馬鹿力で押さえ込んだんじゃないか!!」
喚き散らすリュウキの顔は既に真っ赤だ。
「おかしいとは何だ、おかしいとは。俺は本気で心配したんだぞ。」
抱き込まれたまま、ぐいっと顔だけ離され、今度は顔を上げたシンが身体を密着させたまま、リュウキを覗き込むように視線を合わせてきた。
彼の表情はありありと不満を表し、その翡翠の瞳には確かな熱が浮かんでいた。
それを至近距離で見せつけられたリュウキは、普段の彼女からは考えられないほど顔を真っ赤に染めて、シンの視線から逃れるようにおどおどと視線を彷徨わせている。
先ほどの言い合いで取り戻しかけていた勢いを削がれたリュウキが、所在なさげに身動いだ。
「リュウキ。」
「……。」
「リュウキ、こっちを見ろ。」
いつもならば軽く突っぱねることができるはずなのに、有無を言わせぬシンの言葉に抵抗できず、リュウキがゆっくりとシンに視線を戻す。
不安を宿す金の瞳がゆらりと揺らいだ。
「リュウキ。俺はお前に、家族になってくれ、そう言ったな。」
静かに、しかし確かな強さを含んだ声が、真っ直ぐにリュウキの心に届く。
まるで一言一言が質量を持って、己の心に降り積もっていくような錯覚に、リュウキが小さく身動ぎながらシンの言葉に頷いた。
それを確認したシンが小さく笑みを浮かべる。
「俺はな、リュウキ。」
ゆっくりと、言葉を選びながら告げるシンの顔から笑みが消え去る。
動揺するリュウキの目前には、強く何かを訴えるような瞳で真摯に彼女を見つめるシンがいた。
「俺は、お前の父にも、兄にもなる気はない。」
その言葉を受けたリュウキが、僅かに眉を顰める。
彼女の金の瞳には、明らかな落胆の色が浮かんでいた。
それを見たシンが僅かに苦笑を浮かべる。
「そうじゃない。俺がお前の家族になりたいと言ったのは本当だ。」
「……ならば、何故?」
再びシンの顔から笑みが消える。
細めた翡翠が溢れる熱で僅かに潤んでいた。
「俺は、お前の伴侶になりたい。」
言葉はしっかりと届いた。
届いた瞬間、リュウキの金色の目が大きく見開かれる。
「これから先、俺の隣で、共に歩み、私を支えてくれないか?」
しばらく瞬きも忘れたように固まっていたリュウキが、僅かに息を呑み、次いで小さく息を吐き出したかと思うと、ぐっと口を噛みしめ口を開いた。
「……それは、王として、か?」
歯切れの悪い言葉は、語尾が僅かに震えている。
「それも、ある。」
はっきりと答えたシンに、リュウキの肩が僅かに震えた。
彼女を見つめるシンからは先ほどの熱が潜み、一国を預かる冷静な王がそこにいた。
「お前は、確かに多少型破りなところもあるが、だからこそ狭い視野に囚われず、物事を広く見据えて柔軟に考えることができる。それに、身分を重視しないため、国にとって本当に必要なことやものを考えることができるし、王である私や周りの者が道を外れれば迷わず諫言することができる。」
さらに、とシンは言葉を繋ぐ。
「“私”が唯一、“俺”を見せることのできる女であり、生まれて初めて俺が手も足も出なかった女だ。」
突然、にやりと笑ったシンに、僅かに沈んでいたリュウキが目を瞬かせた。
きょとん、とまるで真っ新な子供のようにシンを見上げる。
シンが再び瞳に熱を宿して、解いた片手でそっとリュウキの頬を包んだ。
「愛している。」
吐息の掛かる距離で、僅かに掠れた声で、男が囁く。
「国のためだとか、王としてだとか、本音を言えばそんなことはどうでもよくなるほど、俺はお前が欲しいのだ。」
言葉が確かな熱を持って心に堕ちた瞬間、口を開く間もなく、リュウキの唇をシンのそれが塞いだ。