シン 10
どのくらい、そうしていたのだろうか。
無言のままシンの腕の中に収まっていたリュウキは、ふと周囲の異変に気付いた。
体格差からか、彼女の視界は殆どシンの身体で埋まっていたが、それでも、彼の肩口からちらりと見える背景に眉を寄せる。
「…シン。」
低く静かに告げられた女の声は、先ほどまでの雰囲気をぶち壊すような無粋な響きで。
しかし、彼女の緊張に気付いたシンは、それまで縋るようにリュウキの肩口に埋めていた顔を上げた。
その動きを感じたリュウキが、僅かに身を離して周囲をさっと見回す。
彼女の動きに続くように、シンも周囲へ視線を向けた。
「何だ、これは。」
二人の目に映ったのは、音もなく、まるでじわりじわりと虫に食われるように、空間が崩れていく様だった。
現実のように感触を持っていた宿の部屋の景色が、あっという間に白い空間に食い尽くされる。
その異様な光景に、シンは無意識のうちにリュウキの肩に置いた両手に力を入れ、彼女の身体を強く引き寄せていた。
――馬鹿な。
己の作り出した空間が、見る見るうちに崩れゆくのをただ呆然と子供は見ていた。
対照的に、距離を置いてその様子を見つめていたシロは、勝ち誇ったような笑みを浮かべて大きく尾を揺らめかす。
そうこうしているうちに、彼らの佇む白い空間には、まるでじわりと色が広がるように、身を寄せ合うシンとリュウキの姿が現れた。
はっきりとこちらを見据える意志を持った金色の瞳に、子供の顔が心底悔しげに歪む。
――お、のれ…おのれぇぇっ!!!
まるで地響きのような怒りの声。
小さな子供から放たれたものとは思えぬほどの憤怒が、その場にいる者の頭の中に直接振動を伝える。
気持ちの悪さに、シンもリュウキも盛大に眉を顰めていたが、少しも怯むことなくお互いを支え合いながらその場にしっかりと立ち上がった。
翡翠と金色の二対の瞳が、揺らぐことなく真っ直ぐに子供を見据える。
二人の手は、まるで生まれたときからそのために在ったかのように、ぴったりと繋がれていた。
――リュウキ、リュウキよ!!解っているのか、愛し子よ!!
――お前が拒めば、世界は歪み、全ての命が苦しむのだぞ!!
――解っているのか、解っているのか!!
老若男女、様々な声音を持って紡がれる声は、まさに人外のもの。
子供は怒りに歪んだ顔を小さな両手で覆いながら、信じられぬとばかりに頭を振った。
全ての命が苦しむ。
その言葉に、一瞬動揺を表すようにリュウキの肩がぴくりと跳ねた。
空気の振動のみでそれを察知した子供が、溢れ出す怒りを僅かに静めて、小さく笑みを浮かべる。
しかし、同様にリュウキの心に気付いたシンが、彼女の肩に回していた腕に力を込めた。
それに気付いたリュウキが戸惑うようにシンを見上げると、彼はリュウキを見下ろし、力強い笑みを浮かべていた。
まるで、大丈夫だとでも言うかのようなシンの笑顔に、リュウキも自然に笑みを返す。
再び子供に向けられた金色の目には、もう迷いも恐怖もなく、彼女の強い意志が浮かんでいた。
生きる、という意志が。
――貴様か…貴様がわたしの愛し子を惑わせたのか!!
再び子供の目に怒りが浮かぶ。
黒いはずのその目は、子供が憤怒の言葉を吐く度に、血が滲むようにどす黒い赤へと変化していった。
生きとし生けるものの憎しみと怒りを凝縮したようなその赤が、リュウキを守るように抱くシンへと向けられる。
二人を包む空気が、ずんと重みを増した。
しかし、シンは怯まない。
「誰が貴様の、だ。リュウキはヒリュウの、私の大事な家族だ。」
はっきりと告げられた言葉は、重い空気に押しつぶされることなく、むしろ空間を裂くように子供へ届く。
リュウキがちらりとシンを仰げば、そこにいたのは、先ほどまで感情露わに彼女を抱きしめていたシンではなく、王として背を真っ直ぐに伸ばし、対峙する者に勝るとも劣らぬ気迫を見せるシンだった。
ならば、と、リュウキも彼の手を握る力をきゅっと強めて、腹に力を入れて目前の子供に対峙する。
「そして、ヒリュウは我らの大事な国。そう易々と、貴様の思い通りにはさせぬ。」
王であるシンの背には、たくさんの命が在る。
リュウキは、彼の背後ではなく、彼の隣で、共に立ちたいと強く思う。
彼女はシンの言葉を飲み込むように、しっかりと目を閉じた後、開いた眼で射抜くように子供を見つめた。
「管理者よ。私はお前の下には堕ちない。私は、新たな私の家族と共に、業を背負って生きていく。」
たった一人、孤独に酔いながら全ての業を背負うことは選ばない。
それは、己を闇から救い出し、光を与えてくれた家族を裏切ることだから。
「家族と、仲間と、共に知恵を出し合い、力を寄せ合い、お前の作り出したこの世の枷を、いつかこの手で打ち砕いてみせる。」
強く、通る声で宣言したリュウキの顔には、シンのよく知る、自信に満ちた誰をも惹きつける笑みが浮かんでいた。
迷いのない、彼女の言葉を受けた子供は、ただただ呆然とその場に立ちつくしていた。
既に真っ赤な血の色と化したその眼を、まんまるに見開いて。
――そ、んな…まさか。
――……まさか。
未だ受け入れたくないのか、子供が呆けたままゆるゆると頭を振る。
しばらくそうしていた子供が、漸く全ての言葉を理解したようにくしゃりと顔を歪めた。
――馬鹿な!!
――愛し子が、わたしを拒むなど!!
子供が必死な形相で、人外の声を持って喚き散らす。
おそらく彼の者は、到底人が考えつかないような時を過ごしてきた存在なのだろう。
しかし、リュウキの目には、借り物とはいえその子供の姿こそが、今の彼の者の精神的な年齢を表しているように思えた。
彼女の眉が僅かに寄る。
まるでそれは、子供の癇癪のようだ。
――いやだ、いやだ!認めぬ、認めぬぞ!!
――リュウキ、リュウキ!わたしを…わたしと……ひっ!!
と、喚き散らしていた子供が、突然恐怖の色を浮かべて息を呑んだ。
見れば、彼の両手の先が、まるで砂のようにぼろぼろと崩れ始めている。
リュウキもシンも訳が解らず、ゆるりと進むその変化を食い入るように見つめていた。
「諦めろ。リュウキは試練に打ち勝った。出された結果に文句は言えねぇ。」
たとえそれが、試練――記憶の闇を作り出した本人でも。
そう、それが管理者に課せられた制約だった。
シロの言葉に、今更気付いたリュウキが、すいすいと空を這うように近づいてくる白い騰蛇に目を向ける。つられて、シンも彼に目を向けた。
「…シロ。」
「薄情な奴だな。今気付いただろ。」
咎めるというよりも、からかうようなシロの言葉に、リュウキが苦笑を浮かべて小さく謝罪する。
――ひぃぃ…いやだ、いやだ…還りたくない、還りたくない!!
ぼろぼろと崩れゆく自らの身体に、恐怖を張り付かせた顔で子供が喚く。
三対の目が、再び子供を見据えた。
「奴はどうなる?」
その様子を感情の籠もらぬ目で見つめていたシンが小さく呟くと、シロがちらりと男を見上げて渋々と口を開いた。
「あいつは賭に負けたんだ。負けた奴は元いた場所に大人しく還るしかねぇ。」
「元いた場所とは?」
「さあな、それは俺だって知らねぇさ。ただ…。」
「ただ?」
先が気になったのか、不意に口を挟んだのはリュウキだ。
「ただ、あいつはもう、お前に手を出せねぇし、この世界へも干渉しにくくなるだろう。」
その言葉に、二人が僅かに目を見開く。
「何でそんなことが解るんだ?」
どこか訝しげに口を開いたのはリュウキだ。
「理を曲げる程の力を持つ存在ってのはな、色々と制約に縛られてんだ。試練だってそうほいほいと試せるもんでもないし、一度出た結果には手を出せねぇ。」
解ったような、解らないような顔でリュウキが首をひねっていると、シロが僅かに目を細める。
三人の視線の先には、もう既に言葉を無くした子供が、生気をなくした瞳でこちらを見つめていた。
リュウキは、子供の最後の一欠片が崩れるまで、その金色の瞳を逸らすことはなかった。