シン 9
――パキン
頭の奥で、何かが弾ける音がした。
在るはずのない何かが砕け、リュウキの視界にちかちかと明滅を繰り返しながら小さな光の粒が四散した。それと共に、彼女の頭部を強烈な痛みが走り、リュウキは堪らず頭を抱えて蹲る。
僅かに開いた唇からは、苦しげに掠れた呻きが零れた。
「リュウキっ!?」
驚きの声を上げたのはシンである。
彼は突然始まったリュウキの異変に驚きつつも、目の前で崩れ落ちるリュウキの身体を反射的に受け止めていた。
頭を抱えてがくがくと震え続けるリュウキを、まるで何かから守るようにきつく抱きしめる。
「リュウキ!リュウキ!どうした!?」
「……っ…ぃ…つっ…!!」
「頭が痛いのか!?リュウキ、リュウキ!」
指の間からさらさらとこぼれ落ちる黒髪を、無造作に掴む細い女の手には、渾身の力が込められているのだろう、はっきりと筋が浮いていた。
顔を覆う黒から時折覗く白い額には、うっすらと汗が滲んでいる。
シンはリュウキの突然の苦しみに訳が解らず、ただただ彼女の震える身体を抱きしめ、リュウキの意識を呼び戻すように声をかけ続けた。
「リュウキ!リュウキ!!しっかりしろっ!!」
「…ぐっ……ぅ…ぁああっ!!!」
と、何度目か彼が呼びかけたとき、とうとうリュウキが声を上げて苦しみだした。
短い叫びと共に、腕の中の細い身体がびくりと大きく跳ねる。
それと同時に大きく背を仰け反らせた事で、俯いていた顔が空を仰ぐように動き、シンの視界に大きく目を見開いたリュウキの顔が映った。
シンは片方の腕をリュウキの腰に巻き付けきつく抱きしめたまま、彼女の焦点を己に合わせようと、白い頬をもう片方の掌でしっかりと包んだ。
「リュウキ!俺を見ろ!!リュウキ!!」
「…ぅ…あ……シ、ン…。」
痛みに喘ぎながらの小さな呟き。
それは確かに、シンを呼ぶ今のリュウキの声で…それを聞くなり、彼は大きく目を見開き、更に声を大きくして彼女を呼んだ。
「リュウキ、リュウキ!俺はここだ!!ここに、戻ってこい!!」
戻ってこい。
それはシンの無意識の言葉だった。
何故彼がその言葉を選んだのか、それは彼自身にすらわからないだろう。
しかし、それがこの時、最もふさわしい言葉だったのは確かだ。
リュウキの腹部に回る大きな手を、いつの間にか彼女の細い手が掴んでいた。
身に響くような低く強いシンの声に応えるように、その手に一層力が入る。
痛みの所為か、それとも沸き起こる感情の所為なのか、リュウキの頬は赤く上気し滑らかな肌を汗が一筋滑り落ちた。
「ぁっ…ぁあっ…あああああっ!!」
喉の奥から全てを吐き出すような悲鳴。
揺れる視線を何とかシンに合わせていたリュウキが全身を痙攣させる。
それと共に、かちりと重なったシンの翡翠の瞳が、目の前の変化を捉えて大きく見開かれた。
「…っ…リュウキ!!」
「…っ…く…。」
がくり、と。
激しく痙攣していた身体が、まるで糸の切れた人形のように力を失う。
次いで、ゆっくりと上げた白い面に見えたのは、シンのよく知る太陽のような黄金色の瞳だった。
「……シ…ン。」
小さな小さな呟きは、しかししっかりと男の耳に届いたようで。
疲れ果てたように力を無くしたリュウキの身体を、力一杯抱きしめていたシンは、弾かれたように腕の中の女を覗き込んだ。
「リュウキ!?大丈夫か!?」
耳元で叫ばれたリュウキが、盛大に眉を顰めてのろのろとシンを見上げる。
「…うるさい。あと、苦しい。」
「まだどこか痛いのか!?」
どうやら焦るあまりリュウキの言葉を激しく誤解しているらしい。
腕の力はそのままに、あちらこちらと身体を探るように覗き込んでくる男に、リュウキは鬱陶しそうに大きく溜息を吐いた。
「阿呆か…お前の馬鹿力が、苦しいんだ。」
「おい!お前成長してるぞ!!それに記憶が…。」
「あぁっもう!人の話を聞け!!」
「その口調、その態度…戻ったんだな!!」
苛々と喚くリュウキに対して、シンの顔には満面の笑み。
全く話を聞かない男に、とうとうリュウキが耐えかねたように身を起こした。
それと同時に僅かに頭を反らせ、そのまま目前にあるシンの頭に勢いをつけて己の額を打ち付ける。
「ぐっ!!」
一瞬、目の前に星が飛んで、どちらのものともつかない呻き声が響いた。
「…っ…ば、馬鹿者!助けに来た者に対して、何という、ことを…。」
女とはいえ、鍛えた筋肉を惜しみなく使い繰り出された渾身の頭突きは、的であるシンにどうやらかなりの痛手を負わせたらしい。
珍しいことに、大国の王の翡翠の目には滅多に見ることのできない涙が浮かんでいた。
しかし、リュウキの方も無傷とはいかなかったようで、彼女の金色の目にもうっすらと涙が浮かんでいる。
「人の話を聞かないからだ!私を圧死させる気か!!兎に角離せ!!」
先ほどの衝撃で僅かに緩んだシンの腕の中で、ここぞとばかりにリュウキが藻掻く。
しかし、緩まっていたはずの腕の拘束は、彼女の意志に反するように再びぐっと強まった。流石に力は加減しているようで、息苦しさは感じなかったが、消耗しきったリュウキの身体では、元から力の差があるシンには抵抗できない。
それでも、しばらくリュウキは腕から逃れようと抵抗していたが、無理と悟ると諦めたように身体から力を抜いて呆れたように溜息を吐いた。
「…よかった。」
僅かな沈黙にどうしたものかとリュウキが眉を寄せていると、頭の上から低い呟きが聞こえた。
「お前が無事で、よかった。」
いつもは堂々と強く響く声が、今はどこか頼りなさげに掠れて語尾は震えている。
その一言を聞くだけで、シンがどれだけ彼女を心配していたかが伺えた。
リュウキの金色の瞳が僅かに揺らめき、どこか居心地悪そうに小さく身動ぐ。
いつの間にか両腕でしっかりと抱き込まれ、彼女の耳には早鐘のようなシンの鼓動と僅かに震える吐息が聞こえていた。