シン 7
海の向こうから次から次に押し寄せる船団に、ヒリュウ国もホウ国も見る見るうちに疲弊していった。
初め、海の向こうの侵略者たちが現れたとき、両国ともに自国の勝利を微塵も疑っていなかった。
それというのも、大軍とはいえ所詮大海原を渡ってきた者たちである。この大陸に辿りつく頃には、兵たちは疲弊し、軍の統制も崩れているだろうと予想していた。
現に、彼らの第一陣は、ヒリュウとホウの国土を踏むことなく海の藻屑と消えたのだ。
しかし、そこで侮ったのがいけなかった。
シンの父である当時のヒリュウ王も、ホウの王も、決して愚王ではない。
むしろ、ヒリュウとホウの同盟をその生涯をかけて堅固なものにし、国を正しく治めた賢王である。
ただ、長く続いた平和が、彼らの判断を鈍らせたのかもしれない。
間をおかずして押し寄せてきた第二陣は、第一陣とは比べものにならないほどの勢いを持ってヒリュウとホウを攻めた。
「彼らを侮ってはいけなかった。大海原を渡ってきた事実を思えば、それだけの技術を懸念に入れ、対峙すべきだったのだ。」
高い技術とそれに伴う知識、戦闘能力もずば抜けており、彼らは魔術も極めていた。
そんな者たち相手に一度出遅れればどうなるか、侵略者たちに上陸を許したことで思い知ったのだ。
瞬く間に国は荒らされ、疲弊していった。
「お前がこの世界に落ちて一年弱ということは、私の知る世よりも八年ほど前のヒリュウだろう。その頃ヒリュウは荒れに荒れて、城下ですら一人で歩くには危険な場所になっていたはずだ。」
よりにもよってそんな時代に落ちるとは。
まるで己のことのように苦しげに顔を歪めるシンに、リュウキは僅かに眉を寄せた。
いくら知己――リュウキにしてみれば、シンの自称ではあるが――とはいえ、血も繋がっていない赤の他人相手にこんな表情ができるだろうか。
リュウキの育ったあの平和な世界ですら、他人のことには無関心を貫き通す世の中だった。
更に言えば、今まで彼女が出会ったこの世界の人間は、己の欲のために奪い、己の保身のために人を売る、そんな者たちばかりだったのだ。
一年前ならば、すぐに信じたかもしれない。
しかし、今はそう簡単に信じるわけにはいかなかった。
彼女がこの一年で学んだのは、異国の言葉と人への不信である。
この世界でそれを崩せば、命に関わることを、少女は知っていた。
「言葉はどうやって学んだのだ?」
不意に掛けられた問いに、少しだけ反応の遅れたリュウキが、はっと肩を揺らしてシンを見た。
彼の顔からは、先ほどの苦しげな色が消え去り、今は静かにリュウキを見つめている。
「…覚えさせられた。」
ぽつりと呟いたリュウキの顔が、苦虫を噛み潰したように歪んだ。
あまり良い記憶ではないことを察したシンが、一言そうかと呟いて言葉を終えた。
その場に降りた沈黙に、リュウキが僅かに身動ぐ。
シンはというと、それほど気にしてはいないようで、無言のままだがリュウキから視線を外すことはなかった。
しかし、リュウキにとっては居心地が悪いことこの上ない。
特に、じっと己を見つめ続ける、宝石のような翡翠の瞳が苦手だった。
煌めく翡翠は、固く閉ざした心の奥まで覗かれそうで、気を抜けば足下を崩されるような、魂から引きずられそうな、そんな不思議な力を持っているように思えた。
今すぐにでも逃げ出したいという気持ちと、このまま翡翠に捕まってしまいたいという訳の解らない気持ちが少女の心で渦巻く。
リュウキは堪らず、シンから逃れるように顔を俯けた。
「実はな、お前の事を知っているとは言ったが、それほど詳しくは聞いていないのだ。」
漸く破られた沈黙に、僅かにリュウキが顔を上げると、シンがやれやれと後ろに反らせた上体を支えるように寝台に手をつきながら、苦笑を浮かべていた。
「いつ、どのようにこの世界に落ちて、誰と出会い誰を失ったのかは掻い摘んで聞いてはいるがな。それに至る経緯や、お前が何を見てきたのかは聞けなかった。」
どこか悲しげに歪んだ顔を見上げて、少女が僅かに首を傾げる。
「貴方は…私の、何?」
小さな声で放たれた言葉は、リュウキ自身も無意識のうちの言葉だったらしい。
すぐに口元を抑えたリュウキは、しまったと言わんばかりに視線をそらしてくしゃりと顔を歪めていた。
黒い瞳に浮かぶのは、後悔と恐怖。
「ごめん、今の無し。」
弱々しい呟きに、シンが僅かに目を細めた。
「俺はお前の…。」
「いいって!!聞きたくない!!」
「何故だ。俺は、知ってほしい。」
「嫌だ!!だってっ…」
必死に拒絶するリュウキの瞳は、しかし確かに縋るような色を浮かべていた。
自分の未来が如何なるものか、彼女とて気にならないはずはない。
流れの傭兵ということは、少しは強さを手に入れたのか。
修也はどうなった。探し出すことはできたのか。
シンは八年後の未来から来たと言っていた。ならば、私は八年後も元の世界に戻ることなく、この世界で生きているということか。
そして何より不安なのは、シンと己との関係。
目の前の男は見るからに身分の高そうな形をしていたし、今まで見てきた中で、金の髪をした者など一人もいなかった。
おそらく貴族かそれ以上。
そんな相手と己の関係など、もしこの綺麗な翡翠の瞳で、彼の口から主人と奴隷などという言葉が出たら、そう思うとリュウキは悔しいのか恐ろしいのか、リュウキはもうよく解らなかった。
ただ、嫌だということだけは解る。
この一年足らずで多くの人買いたちの手を潜ってきたが、この男に彼らと同じ目で見られることは、何故だか無性に我慢がならなかった。
だから…。
「聞きたくない。」
語尾を震わせ、まるで虫の羽音のような声で呟いたリュウキは、再び顔を俯ける。
しばらくそのまま俯いていると、小さな溜息とともに、頭に軽い衝撃を受けた。
ぼふ、と音がしそうな程大げさに、シンの大きな掌が少女の小さな頭に乗せられる。
その重みに反射的に抵抗したリュウキが、僅かに顔を上げた。
剣を持つ者特有の、太い筋張った腕越しに、柔らかな翡翠が見える。
彼の目とぶつかると同時に、リュウキは慌てて頭を下げた。
「本当に…別人のようだな。」
ふ、と小さく笑う声で呟かれた言葉は、僅かな悲しさが伺えた。
リュウキは何となく居心地が悪くて、もぞりと小さく身動ぐ。
その様子に苦笑を零したシンが、掌に収まる小さな頭をゆるりと撫でながら口を開いた。
「残念ながら、俺の知るお前は、もっとがさつで不貞不貞しい。」
掌の下で、少女の頭がぴくりと動いた。
「年上だから敬えと言っても敬語すら使わぬし、もっと女らしくしろと言えば鼻で笑う始末だ。こちらの忠告も聞かず、無鉄砲に何にでも首を突っ込み、いらぬことまで手を出そうとするし、何より短気ですぐに手どころか足まで出る。」
「……。」
次から次に出てくる、未来の己への評価のあまりの酷さに、少女は言葉を返せず、ただただ目を瞬かせるばかりだ。
しかし、しばらく考えた後、男の言葉を理解したリュウキは、未だ頭の上に乗っていた掌をはねのけるように頭を上げると、ぎろりとシンを睨み付けた。
黒い瞳は僅かに細まり、怒りのためか目元に赤みが差している。
いくら未来の己へのこととはいえ、全てはリュウキという人間に向けられた言葉である。
これは言われるばかりでは我慢ならない、とばかりに口を開いたリュウキを遮るように、シンが先に言葉を続けた。
「しかし、常に己よりも他を思い、他人の苦しみを察する心を持っている。細く華奢な身体は女のものであるはずなのに、凜と立つその姿は多くの者を惹きつけ、背後で震える者を安堵させる。」
思わぬ言葉に、喚こうとした口を開いたまま、リュウキが呆然とシンを見つめた。
シンは柔らかい笑みを浮かべたまま更に続ける。
「お前は踏みにじられる屈辱を知っている。虐げられる苦しみも知っている。奪われる恐怖も、理不尽な暴力が与える痛みも、失う悲しさも知っている。」
少女の顔がくしゃりと歪んだ。
「その受けた闇全てを乗り越えて、己の力に、糧に昇華させてきたからこそ、お前は強く美しい。そんなリュウキだからこそ、俺は望んだのだ。」
ずきり、と、頭の奥が僅かに痛んだ。
それでも、リュウキはシンから目を背けることなく、黒い眼でじっと見つめ続ける。
「お前を、ヒリュウの…俺たちの家族に。」
大きく見開かれた漆黒の瞳に、シンの柔らかな笑顔がはっきりと浮かんでいた。