出立
「なぁ、本当にあの黒いのに乗るのか?」
顔の周りをゆらゆらと左右に動く物体に、リュウキは煩わしげに眉を顰めた。
「なー…リュウキー…俺に乗ればいいじゃねぇか。なー。」
リュウキは今、明日の行軍に向けて自分の分の荷の整理をしている。
とはいっても宮仕えに上がる前に傭兵として国を巡っていた彼女は、旅に慣れているので荷も少なければ準備も早い。
後は己の腰にある武器の手入れを残すのみなのだが、先ほどから内弁慶の本領を発揮しまくっている、目前をうろうろとちらつく白いものが邪魔で仕方なかった。
延々と無視し続けていたリュウキの堪忍袋は今にもはち切れそうである。
「リュウキー…なー、リュウキー…リュぅげっ!!!」
変な音が出た。声ではなく音だ。
先ほどまでのんびりと漂っていた騰蛇が、打ち上げられた魚のようにびちびちと宙をのた打ち回っている。その真珠のような胴体は、女の白い手に若干強すぎる力で握り締められていた。
言わずもがなリュウキの手である。
「うっ…ぐっぎ…ぐる…くるし…っ!!」
ぎちぎちと音がしそうな勢いで握る反面、一言も声を出さないリュウキが恐ろしい。
寧ろ罵声でも何でもいいから何か言ってくれた方が幾分マシである。
シロの顔が真珠色から紅を通り越し紫に染まり始めたころ、漸く気が済んだのかリュウキがぱっと手を離した。
途端、一気に器官に入り込む酸素に、シロは涙目でむせる。
言いたいことは色々あるようだが、彼は今それどころではない。
リュウキといえば、何事もなかったかのように溜息をついて、広げかけていた数種の武器の中から愛用のサーベルを手に取ると、寝椅子に腰掛け用意していた布を持って武器の手入れを始めた。
次第に咳を治めて息を整えるシロに、ちらりと視線を向ける。
「まったく…エン殿が苦手なのは解るが、お前が無駄に力を消費するよりいいだろう?」
目の前の騰蛇が本気をだせば、シキの竜に負けないくらいの力を出せることをリュウキは知っている。
その力を解放すれば、竜たちをも凌ぐ大きさになることもできるのだ。しかし、もともと異界の獣であるシロがこの地で力を使うことは、多大な負担がかかることも彼女は知っていた。
「お前の見せ場はレキに入ってから。それまではできるだけ力を使うな。」
「…俺様を甘くみんなよ!巨大化して空を飛ぶくらいどってこと…」
頑として聞き入れないシロに、リュウキは溜息をついてサーベルを置き再び手を伸ばす。
先ほどの無体を思い出し、顔を引きつらせて身を引いた騰蛇に苦笑をこぼすと、今度はやんわりと胴体に手をそえ顔の前まで引き寄せた。
「一応頼りにしてるんだ。私のためにも言うことを聞いてくれ。」
己と同じ金色の目がすうっと細まり、赤い唇が弧を描く。
何者も魅了する彼女の笑みは、異界の獣にも有効らしい。さっきまで真っ白だった騰蛇の顔が今は真っ赤になっていた。
「それだ…その顔に騙されたんだ俺は。」
しばし茫然と目の前の笑顔を見つめたあと、6年前の己の迂闊さを思い出し、シロは諦めたように溜息を吐いた。
普段の王城ならば、まだ人影のない時分。
今日はいつもと違い、朝焼けの中たくさんの人の気配が行きかっていた。
特に練兵場の広場には、大きな竜の影がいくつも見える。
大樹の幹のような皮膚をもつ竜たちの中に、一際目立つ燃えるような赤い竜と、対して闇に溶け込むような黒い竜の姿が見えた。その傍には翼竜隊と術師隊の正装をした隊員がそれぞれの竜に荷を積んでいる。
リュウキは小さな荷物を片手に、大きな黒竜に近づいた。
「遅くなった。」
黒竜の傍で積荷と輿の確認をしていたシキが、リュウキの声に手を止めて振り返った。
当たり前だが、今日はシキもリュウキもきっちり正装である。シキは彼の竜と同じ真っ黒な甲冑を、リュウキはシロと同じ真珠色の軍服を着ていた。
それぞれの胸には金色の竜の紋章が輝いている。
「おう!こっちはもう準備できてるぜ。」
遠征に似つかわしくない軽い受け答えにリュウキは小さく苦笑をもらしつつ、目の前の黒竜に目を向けた。
「エン殿、此度は無理を聞いて頂いて感謝します。道中よろしくお願いいたします。」
王にすら滅多にとらない最上級の礼である。
本来、竜は自分のパートナーである騎士以外を背に乗せることはないのだが、今回山脈を越えるためにどうしても彼らの協力が必要だった。中には不満の声を上げる竜もいたようだが、エンが説得してくれたのだ。
他の竜に騎乗する術師隊の隊員たちも、リュウキと同じようにそれぞれの竜に謝意を述べていた。
リュウキが顔を上げると、エンが金色の眼を細め、すうっとリュウキに首を寄せる。
騎乗の許しを得た証だ。
リュウキは再度頭を下げ、黒竜の側面に回ると背に取り付けられた輿に自分の荷を乗せた。
「出立!!」
朝日に照らされた王城に大将軍の号令が響くと、整列していた竜達が一斉に翼を広げて空へ昇った。
彼らの羽ばたきで、風がごうごうと唸り、まるで嵐のように王城を吹き抜ける。
バルコニーでは、シンとシャルシュ、コウリやギィがシキの率いる翼竜隊と術師隊を見送るように空を見上げていた。バルコニーの下の広場にも他の文官や武官達が整列しているようだ。
リュウキは黒竜の背から王城を見下ろし、バルコニーで一際輝く金色を見つめる。
2対の瞳としっかり視線を合わせると、いつもどおりの勝気な笑みを見せて力強く頷いた。