記憶 7
「ネバっ!!」
がばり、と。
上掛けをはね除けながら、弾かれたように飛び起きたリュウタは、すぐに隣で眠っているはずの養母へと目を向けた。
日の出までそう時間はないのだろう、薄暗い天幕内は、しかし視界がまったく利かないほどではなく、少し目を細めれば僅かに物の輪郭が見えた。
リュウタが視線を向けた先、粗末な寝台の上には、ネバの輪郭が僅かに確認できるが、その細部までは見えない。
リュウタはぎこちない動きで寝台からずり落ちるように降りると、こわばった身体を無理矢理引きずるようにネバの眠る寝台の傍らまで移動した。
「…ね、ば?」
恐る恐るかけた声は震え、喉に支えるように引きつっていた。
最近は、朝起きたら、眠っている間も苦しげに浅い呼吸を繰り返すネバの髪を梳き、熱の有無を確認するのがリュウタの習慣だった。
薄暗い中でも、こうして彼女の顔に近づけば、大きめの呼吸音が聞こえていたはずなのに、今日は全く聞こえない。
天幕の中に響くのは、己の身体から僅かに響く衣擦れの音と、リュウタ自身の少し乱れた呼吸音のみである。
リュウタは頭に浮かんだ事を即座に否定しながら、全身全霊の願いを込めてネバへと手を伸ばした。
幼少の頃よりもずっと節くれ立った長い指が、僅かに震えながらゆっくりと養母の顔へと近づく。
触れる寸前で一端手を止めたリュウタは、一度大きく呼吸をすると小さく唾を飲み込んで再び手を進めた。
「……うそ、だ。」
そっと触れた女の頬は、既に体温を失いつつあるのか、常に高めの熱を保っていたはずなのに、今は不気味な程冷たい。
彼女はもう、生者の温もりを保ってはいなかった。
「ネバ、ネバ…ネバ。」
その声は、叫ぶという程激しさを伴ってはいなかったが、まるで迷子の子供が母を呼ぶように震え、悲痛な響きをもって繰り返された。
信じたくない。
冗談だと思いたい。
そんな思いが、背後で彼を見つめるリュウキにも、溢れるほど伝わってくる。
リュウタは彼女に背を向けているので、リュウキに彼の表情は判らなかったが、声と時折啜るように響く音から、目の前の青年が泣いているだろうことが判った。
「ネバ、ネバ、ネバ、ネバ…。」
青年が縋るように、動かない養母の身体を揺する。
動かないネバの身体から上掛けがずれ、寝台の下に落ちてしまっても、リュウタは構うことなく彼女を呼び続けた。
あれからどれくらいの時間が経ったのだろうか。
既に日は中天を過ぎ、天幕の中にも布を通り越した光が届き、はっきりと彼らの姿を目にすることができていた。
天幕の角にある寝台には、髪を乱したネバが静かに横たわっている。
リュウタは未だその傍らに跪き、冷たく冷え切ってしまった彼女の身体に熱を移そうとするかのように伏していた。
物言わぬ養母の身体を、先ほどまで延々と揺すっていた青年は、今はピクリとも動かない。
「………なんで。」
と、突然零れた言葉に、背後に佇んでいたリュウキが僅かに目を細めた。
長い沈黙を破ったリュウタの声は、いつもの柔らかさが嘘のように掠れ、震えている。
「なんで、ネバが死ななきゃならない。」
低く、低く、まるで何かに訴えるような呟きを零したあと、ゆっくりとリュウタが伏せていた顔を上げる。
泣いたことで赤く腫れた眼の奥には、どこまでも深い闇のように濁った黒い瞳が、恨みと怒りに揺らめいていた。
それからのリュウタは、今までの彼が嘘のように変わってしまった。
否、変わったと言っても、集落の中で彼の変化に気づいた者は一人もいない。
気付いたのは、彼の記憶を辿り、リュウタの傍で彼を見続けたリュウキだけである。
それほど、リュウタの演技は完璧だった。
今まで通り、穏やかな笑みを浮かべ、
今まで通り、薬師として集落の人々を助け、
ネバのいない天幕で、これまで通りの暮らしを続ける。
しかし、過去を共有するように、彼と共にあったリュウキはしっかりと見ていた。
穏やかな笑みを浮かべるその瞳が笑っていないことも、
薬師として働く彼が、今まで収集することがなかった薬草を集めていることも、
ネバのいなくなった天幕で、彼が独り静かに狂い始めていたことも。
すべて、すべて。
金色の瞳を悲しげに細めて、ただ静かに見ていた。