記憶 6
夜も更け、虫の囁く声も静まりはじめた頃。
リュウキはネバとリュウタの眠る天幕の中にいた。
彼女の耳には小さな呻き声が届き、時折寝苦しそうに寝返りを打ち上掛けを引きずる音が届く。
黄色人種特有の黄みがかった白めの肌にじんわりと汗を浮かべて、リュウタが夢の中でうなされていた。
初めてこの世界に来たときは、緊張と不安でよく眠れていないようだったが、年を重ねてからは、元々の大らかな性格からか、寝付きもよくぐっすりと眠るリュウタには珍しいことだった。
リュウキは何となく気になって、触れられないとは解っていたが、そっと彼の額に手を伸ばす。
まるで夢枕に立つ霊のようだと、苦笑を浮かべた。
が、彼女の手がリュウタの額に重なった瞬間、リュウキはぐんと引かれる感覚がして目を見開く。
そのまま手を引くこともできず、彼女の身体はリュウタに吸い込まれるように一瞬にして消えた。
この真っ白な空間は見覚えがある。
あれからリュウキは強制的にどこかに移動させられたようで、引きずられる感覚に一瞬目眩を覚えるも、僅かに目を閉じて開くとそこは既にどこまでも続く真っ白な空間だった。
これはまさしく、リュウキが初めて黒い子供の夢を見たときと同じ空間だ。
この空間にはあまりいい印象を受けたことがないので、リュウキは軽く眉を顰め周囲を警戒して気を張りつめた。
まだリュウタの意識から出た感覚はないので、彼の過去の出来事なのだと解ってはいたが、無意識に身体が緊張していた。
そのまま鋭く細めた眼で周囲をぐるりと見回す。
すると、少し先に先ほどまで目の前でうなされていた青年が、真っ白な床に膝をついて、縋るように両手で彼の正面を叩いていた。
どうやら、リュウキに目視はできないが、彼の前には見えない壁のようなものがあるらしく、必死にそこを叩いている。
いつも冷静な彼にあるまじき行動に、リュウキは訝しげに眉を寄せると、トンと軽い動作で床を蹴ってリュウタの傍らまで跳躍した。
「やめっ…止めろ!!止めてくれっ!!」
初めて聞くリュウタの悲痛な声と、焦りと絶望をにじませた表情に、リュウキが眉を顰めて彼の視線を辿る。
その先には、見覚えのある赤みがかった黒髪の女――ショウコが宙を見上げて嫌な笑みを浮かべているのが見えた。
『昌子!!昌子!!!頼むっ!止めてくれ!!』
とうとう母国語を使い始めたリュウタに、透明な壁の向こうに佇む女が笑みを浮かべたまま彼を横目で見やる。
『ふふ…今更呼んでも遅いのよ。馬鹿な男。』
にんまりと更に口角を上げて浮かべた笑みは、その清廉な美貌を裏切るねっとりと歪んだ笑みだった。
再びショウコが目の前の何かに視線を向ける。
リュウキは何が何だか解らず、ショウコの視線の先を見定めようと足を進めたが、不思議なことに彼女ですら透明の壁を通り抜けることができなかった。
仕方なく、ぎりぎりまで壁に近づき、そう遠くはないショウコの目線の先に焦点を合わせて耳を澄ます。
僅かに目を細めて見つめていると、何も無いはずの空間が小さくゆらりと揺らめいた。
『私、とっても怒っているの。貴方は唯一私を理解できるはずの男だったのに、貴方はちっとも私の言葉を聞かず、血も繋がってない女なんかをいっつも優先させた。』
暗い笑みを浮かべて、ショウコが語る。
言葉を進めるうちに、彼女の瞳には確かな怒りが浮かんでいた。
『そうよ、元の世界でも、この世界でも、みんな私の言うこと聞いてくれたわ。みんなが私を美しいと言い、みんなが私の言葉を第一に聞いてくれた。なのに…』
ショウコから笑みが消え、ぎりっと歯を噛みしめる音が響く。
『なのに、龍太だけが私の言葉を聞かない。龍太が、龍太なんかがっ!!』
燃えるような怒りを浮かべて、黒い瞳がゆらりと揺らめく。
叫ぶように語尾を荒げたショウコは、しかし一端言葉を切ると、小さく息を吐き出して、すぐに勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
『馬鹿な龍太。知ってる?私は神子なのよ。神様に選ばれた尊い神子。ただの人間の龍太には見えないみたいね。』
うっとりと目を細めたショウコが空中の何かに手を伸ばす。
王に守られ、傷一つない滑らかな白い手が、何かを辿るように動いた。
『尊い神子に、ただの人間が刃向かうなんて許されることじゃないわよね。』
ふふ、とまるで少女のような声で笑うショウコの目に暗い何かを感じ、傍らでそれを見つめるリュウキが眉を寄せた。
『だから、罰をあげるわ。もう謝っても許してあげない。』
『罰なら俺に与えればいい!!俺自身を苦しめればいいだろう!?』
『駄目よ、それじゃあ。龍太ってばとっても我慢強いんですもの。だから、ね。』
ふと、ショウコが暗い視線を向けた先、彼女の足下がゆらりと歪むと、真っ白な霧が晴れるように一人の女が現れた。
女の意識は無いらしく、彼女は顔を伏せたままぐったりと横になっている。
『ネバっ!!』
リュウタの叫びに、くすくすと、さもおかしくてたまらないと言うようにショウコが笑う。
彼女の足下に倒れているのは、どこからどうみてもリュウタの養母、ネバだった。
『ふふ、龍太は本当にこの女が好きねぇ。血も繋がってないくせに。』
それでも、異世界で右も左も判らず、一人で生きることもできなかったリュウタを救い育ててくれた彼女は、リュウタにとって母に等しい存在だった。
たとえ彼女が、亡くした子供の代わりにリュウタを拾ったのだとしても、それでもリュウタは彼女を母と思い、感謝と尊敬を寄せていた。
ネバ自身も、初めこそ亡くした子供の代わりと思っていたようだが、今ではリュウタを本当の息子と思っているし、そう言ってくれたのだ。
リュウタにとって、ネバはこの世界で唯一の肉親といっても過言ではなかった。
『昌子っ!頼むっ!!その人だけは、その人だけは止めてくれ!!』
それ以外なら、何でもいうことを聞くから。
言い放つ声は焦りに掠れ、まるで血を吐くような叫びが白い空間に響いた。