記憶 4
子供が平穏な集落に与えたのは、身分という変化だった。
それまで、老若男女それぞれがそれぞれに、できることをやりできないことを他が補っていた生活は、少しずつ変わっていった。
まず、少女を得た男が集落の王になった。
それまで誰を主に立てることなく、皆平等に日々を生きてきた人々の中に、支配するものと支配されるものの違いができた。
切欠は、少女の一言である。
言葉を理解し始めた少女は、ある日男に問うたのだ。
「ここには、おうさまがいないのね。」
特に深い意味があったわけでもない、本当に、ただ不意に疑問に思っただけの言葉だった。
しかし、男は“おうさま”という言葉に意味も解らず興味を引かれた。
疑問に思った男は、少女の言う“おうさま”が何たるかを聞き、理解した。
人を束ね、人を治め、導くものだと。
そのとき、それを語る少女の目には尊敬の色が浮かび、最後に放たれた“えらいひと”という言葉に男の心は一気に引きつけられる。
男は少女を愛していた。
しかし、少女の心は彼女の目に映る様々なものに惹かれ、自分一人に向けられることはない。
男は彼女の目が他に移る度、歯噛みするような思いを胸に抱えていたのだ。
男は少女に問うた。
自分が“おうさま”になれば、ずっと自分だけを見てくれるか、と。
すると、男の言葉に一瞬大きく目を見開いた少女は、すぐに花のような笑みを浮かべて言ったのだ。
「もちろんよ。あなたがおうさまになるなら、わたしはずっとあなたのそばにいるわ。」
それから男は変わった。
これまで、女子供のために狩りをしていた男は、その力の矛先を獣から集落の人々へと変えた。
集落で最も屈強な体躯と優れた戦闘能力を誇っていた男は、あっという間に集落の人間を掌握し、王となった男は彼らを支配するようになった。
男の作り上げた支配する者とされる者の関係は、男とその他を分けただけでなく、集落内の他の人間にも影響を及ぼした。
強者は弱者を守ることを忘れ、傲りを覚えた。
知恵を持つ者は、謀略と策略を使い他者を陥れる事を覚えた。
命に感謝することよりも、奪い着飾ることを覚えた。
それらが集落に根付く頃には、王は集落の男を率いて他の集落を襲うようになっていた。
少女はそんな男の隣で、彼の奪った宝飾品で身を包みながら、花のように笑っていた。
たった数年で様変わりした集落を細めた目で眺めていると、少年――リュウタが薬草を抱えて、彼を拾った女性の天幕へ駆け込んでいくのが見えた。
リュウキはリュウタの姿を追うように視線を向け、そのまま彼の消えた天幕へと足を進める。
分厚い布の壁は、しかし彼女には意味を成さず、リュウキは何の戸惑いもなくするりと天幕の布をすり抜け、内部へと入り込んだ。
そこには寝台と思しき敷き詰めた藁に布を被せただけの塊に横たわる女性と、その隣に座り込み悲痛な顔で女性を見つめるリュウタの姿があった。
女性は顔色が悪く、どうやら病にかかっているようだ。
「ネバ、ネバ!」
まるで死人のような顔色の女性に、リュウタが縋るような声で呼んでいる。
ネバとは女性の名前だろうか。
彼の必死な声に、ネバはうっすらと窪んだ眼を開いた。
それを見たリュウタが、ほっと小さく息を吐く。
「ネバ、薬草とってきたんだ、ちょっと待っててね、今薬を作るから。」
そういうと、リュウタは素早く立ち上がり、すり鉢のような縦長の器と、円盤の中心を貫くように取っ手のついた器具を持ち出し、ネバの眠る寝台の傍らに広げている。
その片時も離れたくないと言うような行動に、ぼんやりと彼を見ていたネバがうっすらと笑みを浮かべた。
ネバという女性は、もともと薬草の知識に長け、村の中でも医師や薬師の役割を果たしていたらしく、弱肉強食の意識が根付いてしまった集落の中でも、彼女だけは迫害されることなく静かに暮らしていた。
リュウタはそんな彼女に、言葉を教わり、この世界で生きていく知恵を教わり、薬草や人体についての知識も身につけていた。
元々勤勉で努力家な性格なのだろう、彼はネバの教えを、まるで乾いた布が水を吸うように覚え、そんなリュウタをネバは誇りに思っていたし、我が子のように愛していた。
リュウタ自身も、初めの頃は何が起こったか理解できず、泣いてばかりだったが、今ではネバを母のように慕い、師と仰ぎ尊敬している。
お互い仮の母親と仮の息子という関係だったが、長い月日は彼らの間に確かな絆を作り上げていた。
しかし、それも今ネバの病に奪われようとしている。
あんなに生気に溢れていた女性は今、まるで別人のように痩せ衰え死に瀕していた。
リュウタはネバから教わった知識を総動員して、日々薬草をかき集め、彼女を救うべく奮闘していたが、ネバの具合は悪くなる一方である。
『龍太!龍太!!』
と、突然天幕の外から甲高い声が響いた。
すり潰した薬草を水差しへと移していたリュウタが、聞き覚えのある声にきゅっと眉を顰める。
彼は構うことなく、水差しを軽く振ると、それを少しだけ小皿に移し、ネバの頭を抱え上げ口元へ近づけた。
「リュウタ、呼んでいらっしゃるのはショウコ様では?」
「ネバは気にしなくていいから、兎に角飲んで。」
「でも…」
「大丈夫、ネバが飲んだら行く。」
頑として聞かないリュウタに、根負けしたネバがゆっくりと小皿の液体を飲み干す。
少し苦みのあるそれは、しかし胃に落ちてしまえば気持ちのよい清涼感をネバの胸に与えた。
我が子ながら、本当に腕のいい薬師になったものだと、ネバが皺の増えた目を細める。
ネバが全て飲んだことを確認したリュウタは、ゆっくりと彼女を寝台に横たえ、上掛けに使っていた布を丁寧にネバの身体に掛けた。
『龍太!龍太―!!いるんでしょ!!』
異国の言葉で掛けられる声を理解できるのはリュウタのみだ。
ネバは声で判断しているのだろうが、彼女には天幕の外で喚き続ける女が何を言っているのか理解できなかった。
「リュウタ。」
「…わかったよ。ちょっと行ってくる。」
急かすように掛けられたネバの声に、大きな溜息を零したリュウタが、渋々と心底嫌そうに天幕の入り口へと向かった。
天幕の入り口をくぐると、日を背にして立っていたのは、少し赤みがかった黒髪の女である。
質素な布で身を包んだだけのリュウタと違い、彼女は綺麗な薄布と色とりどりの宝石で細い身体を着飾っていた。
その白い面は綺麗に整っているものの、苛々と荒れる感情を隠しもせずに眉を寄せているので折角の美女が台無しである。
リュウタは元の世界にいるときから、この気性の激しい幼なじみが苦手だった。
「何のご用でしょうか、ショウコ様。」
慇懃に放たれた言葉に、女――ショウコの顔が更に歪む。
『やめてちょうだい。あと日本語で喋って!!』
「でもそれじゃあ、いつまで経っても言葉上手くならないよ。」
『いいのよ!大体話せるし、理解はできるもの!』
まるで癇癪を起こした子供のようだと思いながら、リュウタは大きな溜息を吐く。
異世界に落ちた二人の子供は、それぞれ時を重ねて二十を超える大人に成長していた。