記憶 3
王も国も無いその土地は、青い丘と呼ばれていた。
常に爽やかな風が草木を揺らす小高い丘は、それほど高くはない頂上に立てば視界の殆どを真っ青な空に埋め尽くされるため、その地に住む者が誰とも無くそう呼び始めたのである。
青い丘の麓には小さくとも綺麗な湖が広がり、まるで鏡のように空を写し込んだその湖――青の湖の畔には、布地の天幕が立ち並ぶ小規模な集落があった。
集落に住む人々は、その日自分たちに必要な分の命を狩り、命に感謝し、粛々と自然に逆らわず、森に生きる獣と同じように日々を繰り返しながら生きているようだった。
しかし、そんな彼らにある日変化が訪れる。
同じ場所、同じ暮らしを続けていた彼らの下に、見たこともない色を持つ二人の子供が現れたのだ。
一人は少女だった。
誰も見たことの無いような黒髪に黒い瞳をした少女は、青い丘に現れた。
まるで舞い降りるように何もない空から現れた少女を受け止めたのは、集落の中でも体躯のいい若者である。
見たこともない程の美しい少女を、若者は一目で気に入り、自分の天幕へ連れ帰った。
もう一人は少年だった。
日に当たると僅かに赤みを見せる少女の黒髪に比べ、どこまでも深い夜空のような色を持つ黒髪に黒い瞳の少年は、青の湖に現れた。
突然わき上がった気泡とともに、水面に浮き上がってきた少年を救ったのは、集落の中でもあまり目立たない中年の女性だった。
彼女は我が子を亡くしたばかりの母親で、他に子供もなく、寂しい思いをしていたところに少年が現れたため、彼を見た途端まるで我が子の生まれ変わりとばかりに少年を抱きしめて我が家へ連れ帰った。
同時に現れた二人の子供。
出自も不明、容姿も言葉も異なる不思議な存在は、それまで平和に日々を暮らしてきた人々に小さな変化をもたらした。
その蝶の羽ばたき程度の変化は、やがて彼らの暮らしを揺るがす大きな波風となっていく。
どこまでも広がる青い空で、眼下に広がる小さな集落を見下ろし、リュウキは僅かに目を細めた。
彼女は今、まるで空に漂う雲のように、空中から眼下を見下ろしている。
大分地面から遠ざかっているものの、リュウキの身体が落下することはなく、またただ制止しているわけでもなかった。
彼女が意識をどこかに向ければ、身体もそちらへ空を流れるように移動する。
まったくもって不思議な感覚だった。
更に言えば、空中といっても、それほど高い位置にいるわけでもなく、眼下の集落でちらちらと姿を見せる人々が空に目を向ければ、はっきりと視界に入る位置にいるというのに、どうやらリュウキの姿は彼らに見えなくなっているようで、先ほどから空を見上げる人間はいるものの、リュウキの存在に気づく者は皆無である。
ここからこうして集落を眺め始めていったいどれ程の時間がたっただろうか。
人々が青い丘、青の湖と呼ぶ場所に二人の子供が現れてから、随分と時が経った気がする。
二人の子供たちは、それぞれの庇護者に教わり、異国の言葉を理解するようになっていた。
ただし、庇護者の熱意の違いか、両者の理解度には差があったけれども。
それでも共に簡単な意思疎通はできているようだった。
「みず、くんできます!」
不意に、集落から僅かに外れた小さな天幕の入り口が捲れ、少し高めの元気な声がリュウキの耳に届いた。
中から出てきたのは、黒髪の少年である。
リュウキは少年の顔に見覚えがあった。
彼女が知る顔とは多少年齢が異なり、目の前の彼は若干成長しているものの、まさしくそれは、現在ヒリュウ王城で保護している例の子供と酷似していた。
間違いなく、彼だろう。
現在の彼が十くらいの年齢ならば、今リュウキの目の前で壺を両手に抱えて湖へと向かう少年は、十四・五くらいか。
寝台で怯えていた彼からは想像もつかないほど、少年は明るく活発な性格をしているようだった。
「リュウタ!今夜は集会の日だから少し多めに頼むよ。」
彼の背後から掛かったのは、暖かく少し掠れた女性の声。
少年は歩みを止め、くるりと振り返ると、満面の笑みで了承の意を伝えた。
「リュウタ、それがお前の名か。」
ぽつりと呟いたリュウキの声は、しかし誰の耳にも届くことはなかった。