歪みの形
巨大な騰蛇の真っ白な胴体を、幾束もの黒い髪が埋め尽くしていく。
それはまるで、闇に飲み込まれる光のように、禍々しい光景だった。
鬱蒼と茂った森の上空を、苦しみもがくような動きでシロは必死に翼を動かす。
今この状態で、少なくなったとはいえ魔獣の闊歩する森に落ちるわけにはいかなかった。
背のリュウキは、辛うじて動く右手でナイフを振り回しているものの、もう殆ど身動きが取れない状況である。
「…っ!…ぐっ…ぁあっ!!」
目の前に森の端が見え、あと少し飛べば闇の腕を抜けられるかというとき、突然背後から苦しげなリュウキの声が聞こえた。
シロが慌てて背後を振り返ると、そこには細い首を髪の束に締め付けられ、身体を震わせているリュウキの姿が見えた。かろうじて右手のナイフで首と髪の間に隙間を作ろうとしているものの、ずるずると次から次に巻きつく髪の毛に圧迫され、ナイフの背が首筋にめり込みかけている。
――リュウキ!!
「…ぃ…かま…ぅ…な…っ!」
――取り敢えず森の入り口まで飛べ!!
もう声も出せないらしいリュウキは、最後の言葉を声を通さず伝心してきた。
シロは大きく舌打して前方に目を向けると、翼の痛みも無視して力の限り飛び続ける。
――もう少しだけ辛抱しろよ!あとちょっとだ!!
――…頼む。
森の入り口まであと僅か。
シロはすぐそこに見えた木々の切れ目、広がる草原目掛けて直進しながら下降しはじめた。
――ズザザザァァ
大地を抉り、草を撒き散らしながら、シロは何とか森から僅かに離れた草原へ着地した。
衝撃に長い胴が激しく跳ねるも、皮肉なことにぐるぐると巻きついた髪のおかげでリュウキも子供も、振り落とされることなくシロの背にくっついている。
しかし、その姿は殆ど黒で埋め尽くされ、子供の姿は見えず、リュウキも片目と手の先が僅かに見える程度だった。
ちらりと覗く肌は心なしか青白い。
シロは自らの身体が大地につくと同時に、青白い炎を巻き上げながらもがいた。
彼の輪郭が炎と共にぼろぼろと崩れる。
次いで残ったのは、巨大な蛇の形に落ち僅かに焼き切れた黒い髪と、一際束になった二つの塊だった。
蠢く黒髪から小さな白い塊が飛び出す。
「リュウキ!!」
シロの叫びが聞こえた瞬間、黒い塊の二つのうち一つがもぞりと動き、もう一つの塊に覆いかぶさったように見えた。
次の瞬間。
「燃え尽きろ!!」
怒りと焦りの咆哮が響くと同時に、シロの小さな口が開かれ、展開した陣から真っ白な炎が黒髪へと放射される。その小さな身体から出たとは思えないほど、一気に広範囲に放射された炎は、黒い髪を全て呑み込み焼き尽くしていった。
きらきらと、煙の変わりに空へと消えていく光の粒と共に白い炎が消え、黒に埋め尽くされていた二人の人間が姿を現す。
「リュウキ!大丈夫か、リュウキ!!」
慌てて傍へと飛んできたシロは、子供を抱え込みながら大地に横たわるリュウキの顔を覗き込んだ。
「リュウキ!」
「くっ…げほっごほっ…はぁっ!!」
その瞬間、今までせき止められていた空気を一気に吸い込んでしまった所為か、激しく咽こんだリュウキが、大きく身体を震わせながらごろりと仰向けに転がった。
彼女の呼吸を確認したシロは、ほっと息を吐いて下降すると、リュウキの頭の横にへたりと蹲る。
「あー…ホント、焦った…。」
シロはぐたりと首を垂れると、心底疲れたような声で溜息交じりの声を漏らした。
その小さな頭に、ぼすっと何かが被さって、シロは驚いて小さく身を震わせる。
「……シロ…助かった…ありがと。」
どうやらリュウキの手のようだ。
血流が滞っていた所為か、いつもよりひんやりと冷たい指先は心地よく、シロは僅かに目を細めた。
ゆるゆると、シロの頭を撫でながら、漸く息を整えたリュウキが大きく溜息を零す。
「にしても…空っぽだな。」
「おう。俺も空っぽだ。」
二人とも激しい動きと大技を使い続けた所為で、体力も魔力も殆ど尽きている。
もう本気で腕を動かすことすら辛かった。
「背中が痛ぇ。」
シロはシロで拘束されながら無理に翼を動かした所為で、羽も痛めたらしい。先ほどまで激しく上下していた翼は今、くたりと大地に伏せられている。
「子供は?」
「あぁ、大丈夫生きてる。また気絶してるみたいだな。」
警戒するようなシロの声に僅かに苦笑を漏らしながら、リュウキはのろのろと首を動かし子供を見ると、そこには先ほどと違い穏やかに眠る子供の姿があった。
異常に長かったその髪はシロの炎に浄化され、今は短い散らし髪を晒している。
「…そういえば。」
「んだよ?」
「夢の中の子供の髪。私はあれに恐怖を感じていた。」
そう、一番最初に見た子供の夢。あの夢の中の子供の長い黒髪は、何かを孕みながら蠢き、リュウキにおぞましい程の恐怖を与えていた。
「…あの髪が、溜めた歪みの象徴だったのか…?全部焼けてしまったな。」
「俺の白炎は、本来そういうもんを昇華させるためのもんだからな。」
「シロの炎だから焼ききれたのか?」
「あぁ、普通の炎じゃあれは焼けない。あれはもう子供の一部ではなく、あれ自体が別の集合体だった。」
蠢く黒を思い出し、シロが眉を顰める。
あまりに禍々しいそれは、この世の醜い欲望全てを集めたような、純粋な黒というよりももっとドロドロとした色だった。
そんなシロの見解に、リュウキがしばし黙り込み小さく頷く。
「私も、夢で子供の髪を見たとき、そう思った。確かに何かが蠢いていたんだ。」
あれが、歪みか。
この美しいはずの世界が生み出した闇の成れの果てか。
しかし、リュウキはこの世界がもつ美しさを知る反面、人の生み出す闇の深さも確かに知っていた。あれがそうだというならば、確かに人が生み出したものなのかもしれない。
「今は何も感じないが…山を下りるときもそうだったからな。」
「油断はできねぇな。でも、まぁ連れてきちまったもんは仕方ねぇ。」
「何だ…私はてっきり捨てろと言われるとばかり思ってたぞ。」
少し驚いたように目を見開くリュウキに、シロが少しばつが悪そうに俯く。
ぽんぽんと宥めるようなリュウキの手の動きに照れたのか、大人しかったシロが煩わしそうに頭に乗った白い手を振り払った。
「俺だってそこまで無慈悲じゃねぇ!」
「ふふ…はいはい、なんだかんだ言ってシロは優しいもんな。」
「うるせぇぞリュウキ!だいたいこっからどうやって帰るんだよ!」
「うーん、それが問題なんだよなー。あんまり長いしたくない場所だし。」
そう、森を抜けたといっても、未だ闇の腕の入り口は目と鼻の先。
いつ気紛れを起こした魔獣が森を出てきてもおかしくない位置だった。
それでも、すぐには動けないくらい彼らは消耗している。ふざけた様なやり取りをしているが、なかなか深刻な状況だった。
「どーすっかなー。」
はーっと、大きな溜息とともに空に向かって放たれた言葉は、無情にも風にさらわれて消える。
その暢気な姿にシロが深く溜息を吐いたとき、空を仰いでいた二人の視界にきらりと光る金色の何かが見えた。