子供の目覚め
「下が静かだな。」
ぽつり、と呟いたのはリュウキだ。
その言葉に促されるように下――“闇の腕”に視線を向けたシロが、確かにと頷く。
来るときと同じくらいの魔の気ではあったが、蠢いていた魔獣の気配がかなり薄くなっていた。
――まぁ、行きにあんだけ暴れれば仕方ねぇんじゃねぇか?
「あー…やっぱりその所為かな。」
――だと思うぜ?
どこかばつが悪そうに呟くリュウキに、シロがくっくと声を漏らす。
――最近森を出る魔獣が増えてたんだろ?これでちょっとは落ち着くだろうし、ちょうどいいじゃねぇか。
「あぁ、コン爺が言ってたな。でも何か森を荒らしたみたいで、どうも後味悪いな。」
はぁ、と大きな溜息を吐くリュウキに、シロが苦笑を浮かべた。
魔獣や、彼らが住む森を殲滅したところで、この世界の人間にとってそれは功績である。誇りに思いこそすれ、誰も気に病んだりしないだろう。
しかし、リュウキは違う。
人も魔獣も一つの命として扱う。人を殺めることも、魔獣を殺めることも、彼女にとってそう大差なのである。
同じ、命を奪うという行為だと認識しているのだ。
本当に面白い女だと、シロは思う。
「お。」
そんなことをつらつらと考えていると、背からリュウキの声が聞こえた。
――どうした?
「子供が動いた。」
言葉だけ聞けば何だか腹の子を伺う妊婦のようだと苦笑を浮かべたシロが、僅かに振り返りながら横目で背の二人を見やった。
そこには、小さな顔を苦しげに歪め、もぞりと動く小さな子供の姿。
身体にまとわりつく長い髪を鬱陶しげに払いながら、小さな子供がゆっくりと目を開いた。
「大丈夫か?」
ぼんやりと、やはり夜の闇のような黒い瞳がリュウキを捉える。
未だ意識がはっきりとしていないようで、虚ろなその目は見えているのか怪しいくらい揺れていた。
しかし、うっすらと開かれていた目がしっかりとリュウキを見つめた瞬間、大きく見開かれる。
「…ぁ……あ…ぅ…。」
ぱくぱくと、何かを訴えるように開かれた口から出たのは僅かに掠れた音で、リュウキに子供の意思を伝えるものではなかった。が、小さな身体はガクガクと震え、見開いた瞳は恐怖の色を浮かべている。
尋常ではない子供の様子に、リュウキは眉を顰めて子供の頬に手を添えた。
小さな身体を抱きしめている方の腕には、痛まない程度の力を入れてしっかりと子供を抱く。
「おい、どうした?大丈夫か?」
それでも子供の震えは止まらず、もはや痙攣するように小刻みに揺れはじめた身体に、リュウキは焦ったように声をかけた。
焦点を失いそうな子供の目を合わせるために、リュウキは頬に添えていた手で子供の顔を強制的に己の方向へ向けると、覗き込むように子供を見つめた。
「おい!おいっ!」
――どうした?
「解らない、子供の様子がおかしい。」
――兎に角、森を出よう。飛ばすぞ!
「あぁ、頼む。」
ぐん、とシロの翼が一層大きく上下したかと思うと、過ぎ行く眼下の景色の移り変わりが速さを増す。
リュウキは僅かに身体を後方に取られぐらつくも、しっかりと両足で踏ん張り身体を固定した。
「おい!こっちを見ろ!!」
その間も、必死に子供に語りかけ、どうにか子供の意識を保とうと軽く頬を叩く。
「おい!」
「…っ…ぁ。」
「何?何だ?」
「………ぃ……けない…逃げっ……っ!!」
子供の言葉が、僅かにリュウキの耳に届いた瞬間。
「なっ!?」
子供に纏わりついていた真っ黒な髪が、まるで意思を持ったようにずるずると動き始めた。
それはリュウキが子供を手放す暇を与えず、物凄い勢いで彼女の身体に巻きつき始める。
いけない、と思ったときには既に胴が固定され、腕も脚も僅かに動くのみだった。
「シロっ!!私を落とせっ!!」
彼女の身体に巻きついた髪は、そのままシロの胴体に及ぼうとしている。それを見たリュウキは慌てて叫んだ。
背後の異変に気づいたシロが、再び背を振り返り大きく目を見開く。
――なっ…何だぁ!?
気付いたときには時既に遅し。彼の真珠色の胴体にも、真っ黒な髪の毛がしゅるしゅると巻きつき始めていた。
「くっ…そ…何なんだこれは!!」
ずるずると巻きつく髪は、リュウキの細い身体を締め付けながら拘束していく。
「…ぁっ…あっ…だめっだめぇ!!」
腕の中の子供は、目を見開いたままガクガクと身体を震わせながら大きな瞳に涙を浮かべていた。
どうやらこの髪は、子供の意思に反して動いているようだ。
リュウキは大きく舌打ちすると、髪が巻きつき自由に動かない腕に渾身の力を込めて己の足首へと手を伸ばした。相反する力にぶるぶると腕を震わせるも、何とかそこまで手を寄せる。
そのまま足首に隠し持っていたナイフを取ると、小さくすまんと子供に呟き肢体に巻きつく長い黒髪に刃を当てた。
ざん、と音を立てて彼女の脚に巻きついていた髪が断たれる。
ぴんと張り詰めていた髪が、支えを失ったようにゆるりとゆるまり、リュウキはその隙に脚を大きく上げて絡まる髪を薙ぎ払った。
逆の脚、両腕、胴と、次々に髪を断っていく。
しかし、髪はそれを上回る勢いで彼女の身体に再び巻きつき始めた。
「くそっ!限がない!!」
そうこうしているうちに、シロへと巻きついていた髪が、今度は彼の翼の方へと腕を伸ばす。
それは不味いと、慌てて振り返ったシロが、首を伸ばして翼に伸びる髪を牙で引きちぎった。
うねうねと、闇の腕の上空を、大きな騰蛇が蛇行しながら不安定に飛んでいく。
「兎に角、何とか森の端まで頑張れシロ!!」
――わかった!!
ずるずると、断たれてなお這い続ける黒い髪に眉を潜めながら、リュウキは前方に見える森の途切れを見据えて焦ったように叫んだ。